2011年11月01日
ウッドラケットで優勝した最後のプレーヤー
ご存知の方もおられるかもしれませんが、ミロスラフ・メシールは、実は、ウッドラケットでシングルスの優勝した最後のプレーヤーとして記録(記憶)されています。メシール自身は、選手時代のインタビューで「グラファイトのラケットも使ってみたけれど、子どものころから使い慣れたウッドのラケットを換えることはできなかった」とコメントしています。ほとんどすべてのプレーヤーが、子どものころに使っていたウッドラケットをグラファイト系に換えていった1980年代の話です。
さて、メシールは、なぜ、ウッドのラケットにこだわったのでしょうか?私は、それは、ウッドラケットが振動吸収性の高いラケットだったからだと考えています。メシールのようなフラットドライブ系プレーヤーは、本質的に、柔らかく振動吸収性が高いラケットを好む傾向にあると思っています。
今回は、フラットドライブ系プレーヤーと振動吸収性の高いラケットの関係について、考えてみたいと思います。
一昨日、Dunlop社のNEOMAX2000のインプレを書きました。その際に、NEOMAX2000は、私の個人的な印象ですが、打球感がかつてのMAX200Gに似ており、「振動が少なく、鈍く厚い打球感」と書きました。
この打球感は、どうやって作られるのかなぁ…と考えていたのですが、ふと、思ったのが、運動量保存の法則とエネルギー保存の法則です。この2つの物理法則と「少ない振動・鈍く厚い打球感」がどんな関係にあるのかを、今回、考察してみようと思います。
さて、私のようなフラット(フラットドライブ)系のボールを打つ場合には、自分の打った球に順回転をかけることは主目的にはなりません。ボールの速度(移動速度)が重要です。一方、相手の打った球は、速度と回転を両方持っています。特に、相手がスピナーの場合は、回転の比重がその分大きくなります。
相手のボール(速度と回転)を自分のボール(速度中心)にして打ち返したいのが、フラットドライブ系のストロークの目的となります。「いかに相手のボールの速度を利用しながら、しかしボールの回転を殺すか」が、フラットドライブ系の課題になるわけです。
運動量については、重いラケットでボール方向に垂直にラケット面を作り、ボール方向にスイングする(ボール進行方向とラケット面が移動する方向が一直線になる)と保存できます。つまり、このようにラケットを振るお、相手のボールの速度と同じ速度(またはそれよりも速い速度)でボールを打ちかえすことができます。ラケットが(ボールの重さと比べて)重ければ重いほど、速度を作りやすくなります。(ラケットが重いと、その分だけ体や腕に対する負担が大きくなるので、ラケットが重ければよいというわけでもありませんが。)
回転については、スピン系ボールをフラットドライブ系ボールで打ち返すことを考えると、相手のボールと自分のボールは回転方向が逆になります。つまり、相手のボールの回転をすべて吸収して、さらに、それとは逆の回転をかけることになります。
その方法は、おおざっぱにいうと、①順回転方向にボールを打つことで相手のボールの回転を逆の回転にする、②ラケットでボールの回転エネルギーを吸収する、の2つがあり得ます。②では、相手のボールの回転を逆回転にすることはできませんが、回転を0にすることは(理屈上は)できます。
多くのスピン系のプレーヤーは、①を行うために、ラケットをボールに対してこすり上げます。フラットドライブ系プレーヤーも、①が中心となりますが、ラケットが②を行ってくれるとその分だけスイングは楽になります。
さて、ここからが本題です。私がMAX200GやNEOMAX200Gなどの振動吸収系ラケットが好きな理由は、もしかしたら、上の②の仕事をラケットがしてくれるからなのではないかと思ったのです。振動吸収とは、実は、ボールの回転吸収なのではないかと。これらのDunlop社のラケットにかかわらず、一般的に、フレームの柔らかい(振動吸収系の)ラケットは、相手のボールの回転エネルギーを吸収しやすいと(直観的には)思います。
ただし、ボールのエネルギーを吸収するラケットは、欠点もいくつかあります。
一つは、ボールの回転エネルギーと同時に、運動エネルギーも吸収してしまうということです。つまり、相手の打ったボールの速度も吸収してしまうということです。速度を吸収してしまうと、その分、速いボールを打てません。その際に役に立つのが、ラケットの重さです。運動エネルギーを吸収してもボールに反対方向の速度を与えるためには、ラケット自身が重ければその分だけ容易になります。(運動エネルギーは吸収しても、運動量は保存できるからです。)
もう一つは、ボールの回転エネルギーをラケットが吸収した際に、そのエネルギーはどこに行くのかということです。フラットドライブ系プレーヤーにとってはエネルギー吸収系ラケットは望ましいかもしれませんが、ラケットが吸収したエネルギーが振動として腕に伝わってしまうと、テニスエルボなどの故障の原因となってしまいます。
ラケットが吸収したエネルギーをどのように振動エネルギーとしてラケット内で消費するかという技術は、私にはよく分かりません。が、時々、ラケットの振動吸収をアピールするラケットの広告(振動が急激に小さくなるグラフなど)を見ると、そういう技術があるのだと思います。
この話は、おそらく、スポーツ学などでは常識的な(基本的な)話かもしれません。また、理屈と実際は、実はかなり一致しないのかもしれません。
が、フラット系グランドストロークの私が、どうして、NEOMAX2000のような「柔らかくて振動吸収性の高いラケット」が好きで、それに鉛をべたべたと貼って使っているのかを考えると、物理の理屈とは見事に一致します。今まで、無意識に、物理法則を考えてラケットを選んでいたのかもしれません。
理屈にも合うのですから、NEOMAX2000が、ますます好きになりそうです(笑)。
さて、メシールは、なぜ、ウッドのラケットにこだわったのでしょうか?私は、それは、ウッドラケットが振動吸収性の高いラケットだったからだと考えています。メシールのようなフラットドライブ系プレーヤーは、本質的に、柔らかく振動吸収性が高いラケットを好む傾向にあると思っています。
今回は、フラットドライブ系プレーヤーと振動吸収性の高いラケットの関係について、考えてみたいと思います。
一昨日、Dunlop社のNEOMAX2000のインプレを書きました。その際に、NEOMAX2000は、私の個人的な印象ですが、打球感がかつてのMAX200Gに似ており、「振動が少なく、鈍く厚い打球感」と書きました。
この打球感は、どうやって作られるのかなぁ…と考えていたのですが、ふと、思ったのが、運動量保存の法則とエネルギー保存の法則です。この2つの物理法則と「少ない振動・鈍く厚い打球感」がどんな関係にあるのかを、今回、考察してみようと思います。
さて、私のようなフラット(フラットドライブ)系のボールを打つ場合には、自分の打った球に順回転をかけることは主目的にはなりません。ボールの速度(移動速度)が重要です。一方、相手の打った球は、速度と回転を両方持っています。特に、相手がスピナーの場合は、回転の比重がその分大きくなります。
相手のボール(速度と回転)を自分のボール(速度中心)にして打ち返したいのが、フラットドライブ系のストロークの目的となります。「いかに相手のボールの速度を利用しながら、しかしボールの回転を殺すか」が、フラットドライブ系の課題になるわけです。
運動量については、重いラケットでボール方向に垂直にラケット面を作り、ボール方向にスイングする(ボール進行方向とラケット面が移動する方向が一直線になる)と保存できます。つまり、このようにラケットを振るお、相手のボールの速度と同じ速度(またはそれよりも速い速度)でボールを打ちかえすことができます。ラケットが(ボールの重さと比べて)重ければ重いほど、速度を作りやすくなります。(ラケットが重いと、その分だけ体や腕に対する負担が大きくなるので、ラケットが重ければよいというわけでもありませんが。)
回転については、スピン系ボールをフラットドライブ系ボールで打ち返すことを考えると、相手のボールと自分のボールは回転方向が逆になります。つまり、相手のボールの回転をすべて吸収して、さらに、それとは逆の回転をかけることになります。
その方法は、おおざっぱにいうと、①順回転方向にボールを打つことで相手のボールの回転を逆の回転にする、②ラケットでボールの回転エネルギーを吸収する、の2つがあり得ます。②では、相手のボールの回転を逆回転にすることはできませんが、回転を0にすることは(理屈上は)できます。
多くのスピン系のプレーヤーは、①を行うために、ラケットをボールに対してこすり上げます。フラットドライブ系プレーヤーも、①が中心となりますが、ラケットが②を行ってくれるとその分だけスイングは楽になります。
さて、ここからが本題です。私がMAX200GやNEOMAX200Gなどの振動吸収系ラケットが好きな理由は、もしかしたら、上の②の仕事をラケットがしてくれるからなのではないかと思ったのです。振動吸収とは、実は、ボールの回転吸収なのではないかと。これらのDunlop社のラケットにかかわらず、一般的に、フレームの柔らかい(振動吸収系の)ラケットは、相手のボールの回転エネルギーを吸収しやすいと(直観的には)思います。
ただし、ボールのエネルギーを吸収するラケットは、欠点もいくつかあります。
一つは、ボールの回転エネルギーと同時に、運動エネルギーも吸収してしまうということです。つまり、相手の打ったボールの速度も吸収してしまうということです。速度を吸収してしまうと、その分、速いボールを打てません。その際に役に立つのが、ラケットの重さです。運動エネルギーを吸収してもボールに反対方向の速度を与えるためには、ラケット自身が重ければその分だけ容易になります。(運動エネルギーは吸収しても、運動量は保存できるからです。)
もう一つは、ボールの回転エネルギーをラケットが吸収した際に、そのエネルギーはどこに行くのかということです。フラットドライブ系プレーヤーにとってはエネルギー吸収系ラケットは望ましいかもしれませんが、ラケットが吸収したエネルギーが振動として腕に伝わってしまうと、テニスエルボなどの故障の原因となってしまいます。
ラケットが吸収したエネルギーをどのように振動エネルギーとしてラケット内で消費するかという技術は、私にはよく分かりません。が、時々、ラケットの振動吸収をアピールするラケットの広告(振動が急激に小さくなるグラフなど)を見ると、そういう技術があるのだと思います。
この話は、おそらく、スポーツ学などでは常識的な(基本的な)話かもしれません。また、理屈と実際は、実はかなり一致しないのかもしれません。
が、フラット系グランドストロークの私が、どうして、NEOMAX2000のような「柔らかくて振動吸収性の高いラケット」が好きで、それに鉛をべたべたと貼って使っているのかを考えると、物理の理屈とは見事に一致します。今まで、無意識に、物理法則を考えてラケットを選んでいたのかもしれません。
理屈にも合うのですから、NEOMAX2000が、ますます好きになりそうです(笑)。
2011年09月27日
古いビデオを観なおしてみませんか?
今日、二人の方とシングルスの試合をしていて、ふと思ったことがあります。私は、このブログのタイト通り、メシールのテニスを目指しています。何年にもわたり、メシールのプレーを分析し、試行錯誤を重ねることで、圧倒的に力の差がある場合は別ですが、同程度の技量の相手であれば、少しずつ、メシールの技術を自分のプレーに部分的に取り込むことができるようになってきたようです。
というのは、ゲーム後に、二人から同じことを言われたからです。「あなたのバックハンドは、フォア側に来るのかバック側に来るのか全くわからないので、武器になりますね。」これは、私にとっては、最大の賛辞です。
マジカル・ミステリー・メシールで書いたように、最近、Tennis Journalの古いバックナンバー(1987年8月号)を見つけました。その中で、福井烈氏がメシールのバックハンドストロークの連続写真を解説しています。二つ並んだメシールの順クロスと逆クロスの2つの連続写真について、福井氏はこのようにコメントしています。「この3-4コマ目(インパクト直前)の写真を見てもらうと分かると思いますが、メシールの場合、順クロスと逆クロスに打つフォームが全く同じなので、どちらにボールが来るのか、全くわからないのです。」福井氏は、直前のジャパンオープン2回戦でメシールと戦っている(2-0でメシールの勝利)ので、対戦した印象でもあるのでしょう。
プロテニスの世界では技術はどんどん進化して、20年以上前のメシールのプレースタイルは、現代テニスでは通用しないかもしれません。しかし、私ぐらいのレベルのテニスであれば、メシールの技術は、今でも十分に通用すると思うのです。いやむしろ、かつてのプロのプレースタイルを現在のアマチュアが導入することは、望ましい側面もあるかもしれません。
今、テニスコートに行くと、若い人を中心に、ナダルやジョコビッチのようにコートのどこからでもパワフルなボールを打とうとするプレーヤーを見かけることがあります。今日の試合の相手も、とてもよいフットワークと熱意のあるプレースタイルなのに、目指すテニスが難しすぎて、いくつものポイントで自滅していました。もし、そのような人が、今の男子プロのテニスをテレビで見て、それに影響を受けているのだとすると、それは不幸なことだと思います。誰から、どんなテニスを学ぶのかは、アマチュアにとっても、大切なことであるはずです。
メシールのテニスを推奨するつもりではないのですが、メシールのようなフラットドライブ系のグランドストロークは、古いテニスだと捨てたものではありません。少なくともアマチュアの中上級クラスでは十分に通用します。フラットドライブは、スピン系のボールと比較すると試合では不安定になりやすいものの、ボールコントロールがしやすく、特に鋭角のクロスとダウンザラインを打ち分けることができます。そのために、相手のの裏をかいたり、予想しない角度でのボール配球ができるため、ゲームを楽しむには最適です。
25年前のビデオは、もしかしたら、今のアマチュアの良い教材になるかもしれません。肉体的に難しいプレーを目指すよりも、洗練されて理にかなったプレーを目指す方が、プレーが楽しくなるという人もきっといると思います。
⇒この記事の元記事はこちら
というのは、ゲーム後に、二人から同じことを言われたからです。「あなたのバックハンドは、フォア側に来るのかバック側に来るのか全くわからないので、武器になりますね。」これは、私にとっては、最大の賛辞です。
マジカル・ミステリー・メシールで書いたように、最近、Tennis Journalの古いバックナンバー(1987年8月号)を見つけました。その中で、福井烈氏がメシールのバックハンドストロークの連続写真を解説しています。二つ並んだメシールの順クロスと逆クロスの2つの連続写真について、福井氏はこのようにコメントしています。「この3-4コマ目(インパクト直前)の写真を見てもらうと分かると思いますが、メシールの場合、順クロスと逆クロスに打つフォームが全く同じなので、どちらにボールが来るのか、全くわからないのです。」福井氏は、直前のジャパンオープン2回戦でメシールと戦っている(2-0でメシールの勝利)ので、対戦した印象でもあるのでしょう。
プロテニスの世界では技術はどんどん進化して、20年以上前のメシールのプレースタイルは、現代テニスでは通用しないかもしれません。しかし、私ぐらいのレベルのテニスであれば、メシールの技術は、今でも十分に通用すると思うのです。いやむしろ、かつてのプロのプレースタイルを現在のアマチュアが導入することは、望ましい側面もあるかもしれません。
今、テニスコートに行くと、若い人を中心に、ナダルやジョコビッチのようにコートのどこからでもパワフルなボールを打とうとするプレーヤーを見かけることがあります。今日の試合の相手も、とてもよいフットワークと熱意のあるプレースタイルなのに、目指すテニスが難しすぎて、いくつものポイントで自滅していました。もし、そのような人が、今の男子プロのテニスをテレビで見て、それに影響を受けているのだとすると、それは不幸なことだと思います。誰から、どんなテニスを学ぶのかは、アマチュアにとっても、大切なことであるはずです。
メシールのテニスを推奨するつもりではないのですが、メシールのようなフラットドライブ系のグランドストロークは、古いテニスだと捨てたものではありません。少なくともアマチュアの中上級クラスでは十分に通用します。フラットドライブは、スピン系のボールと比較すると試合では不安定になりやすいものの、ボールコントロールがしやすく、特に鋭角のクロスとダウンザラインを打ち分けることができます。そのために、相手のの裏をかいたり、予想しない角度でのボール配球ができるため、ゲームを楽しむには最適です。
25年前のビデオは、もしかしたら、今のアマチュアの良い教材になるかもしれません。肉体的に難しいプレーを目指すよりも、洗練されて理にかなったプレーを目指す方が、プレーが楽しくなるという人もきっといると思います。
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2011年08月10日
懐が深いということ
メシールのストロークは、しばしば、「懐(ふところ)が深い」と評されます(いました)。懐が深いというのは、どういうことでしょうか?今回は、メシールの懐の深さを分析してみようと思います。
一般的に言うと、懐が深いということは、打点が後ろであるといってよいでしょう。一瞬、差し込まれたように見える場合でもボールを打ち返すことができる。しかも、差し込まれて苦し紛れに打ち返すのではなく、きちんとボールをコントロールするということです。場合によっては、振り遅れたと思った相手が想像しない方向に打ち返すということもあります。
しかし、ここで、注意する点があります。懐が深い(メシールの)ストロークは、常に打点が後ろであるということではないということです。このことを間違えると、メシールのテニスを誤って理解することになります。
現代のテニスにおいて、常にフォアハンドストロークの打点を後ろにおいているプロテニスプレーヤーは、存在しません。どんなにグリップが薄くてもです。かつてのプレーヤーでは、マッケンローがそうでしたが、そのフォアハンドは決して安定しているというものではありませんでした。
打点が後ろになってもボールに勢いを与えることができるのは、相手のボールに勢いがあるときだけです。自分の体重移動を使わずに、相手のボールの勢いを使って小さいスイングと正確なラケット面でボールを打ち返す場合のみなのです。いわゆる、「面を作ってボールを打ち返す」ということです。
相手のボールが普通の(または勢いのない)ボールであれば、基本は、打点を前にして、しっかりと前足に体重移動することでボールを打つのが、ストロークの基本です。これは、あらゆるタイプのプレーヤーに共通したことです。
では、懐が深いプレーができるプレーヤーとは、どういうプレーヤでしょうか?
この答えは、簡単です。スイングがループ状ではなく、直線状のタイプのプレーヤーです。ループ状のプレーヤー(たとえば、メシールと同世代でいうと、アガシやヴィランデル)の場合、ボールのヒッティングポイントが点になります。ボールの飛球線とループの交差点のみが打点になります。いわゆる、スピン系のフォアハンドストロークです。
一方、直線的なストロークの場合には、ボールとスイングの飛球線を重ねることで、打点を広くとることができます。したがって、差し込まれた場合でも、ボールを打ち返すチャンスが増えるので、「懐が深い」ことになるのです。いわゆる、フラット系のストロークが、これに該当します。
もう一つ、フォアハンドに関していうと、グリップが薄いことが、懐が深いことの必要条件になります。厚いグリップは、体の前のほうでしか打点があり得ませんが、薄いグリップは打点を後ろにすることができます。(くどいようですが、打点が後ろになるのは、特別な場合だけです。)最近のテニスでは、ほとんどの選手のフォアハンドグリップが厚いので、懐の深いフォアハンドストロークを見ることは、ほとんどなくなりました。
繰り返しますが、懐が深いストロークが打てるからと言って、打点を前に(体重を乗せて)打つことができる時に、あえて、打点を後ろにすることはありません。それは、力強いボールを打つという意味では、不利になります。メシールは、フォアハンドでも、バックハンドでも、まれに、スイングを瞬間的に遅らせることで、意図的に打点を後ろにして、逆クロスにボールを運ぶ打ち方をしていました。これは、格下の相手に対しては特に有効な技術でした。アマチュアにはなかなか難しい高等技術ですが、私も、いつかは挑戦してみたいと思っています。
さて、話を戻しましょう。というよりも、すでに、結論は出ています。懐が深いメシールのプレーをコピーする際に、決して、打点を遅らせてはいけないということです。打点を遅らせるのは、仕方がない場合、または意図的にそれを行う場合であって、基本は(普段は)、打点は前です。他のプレーヤーと同じです。
このことは、フォアハンド、バックハンド、どちらも同じです。実は、特に気を付けるべきは、バックハンドの場合です。メシールのテニスでは、フォアハンドはもちろん、バックハンドでも打点を後ろにおいてはいけません。正確に調べたわけではありませんが、メシールの両手バックハンドは、他の両手バックハンドと比較した場合でも、打点は前なのではないかと思います。(少なくとも、他のプレーヤーよりも後ろということはないはずです。)このことは、また、別の機会に書こうと思います。
⇒この記事の元記事はこちらです。
一般的に言うと、懐が深いということは、打点が後ろであるといってよいでしょう。一瞬、差し込まれたように見える場合でもボールを打ち返すことができる。しかも、差し込まれて苦し紛れに打ち返すのではなく、きちんとボールをコントロールするということです。場合によっては、振り遅れたと思った相手が想像しない方向に打ち返すということもあります。
しかし、ここで、注意する点があります。懐が深い(メシールの)ストロークは、常に打点が後ろであるということではないということです。このことを間違えると、メシールのテニスを誤って理解することになります。
現代のテニスにおいて、常にフォアハンドストロークの打点を後ろにおいているプロテニスプレーヤーは、存在しません。どんなにグリップが薄くてもです。かつてのプレーヤーでは、マッケンローがそうでしたが、そのフォアハンドは決して安定しているというものではありませんでした。
打点が後ろになってもボールに勢いを与えることができるのは、相手のボールに勢いがあるときだけです。自分の体重移動を使わずに、相手のボールの勢いを使って小さいスイングと正確なラケット面でボールを打ち返す場合のみなのです。いわゆる、「面を作ってボールを打ち返す」ということです。
相手のボールが普通の(または勢いのない)ボールであれば、基本は、打点を前にして、しっかりと前足に体重移動することでボールを打つのが、ストロークの基本です。これは、あらゆるタイプのプレーヤーに共通したことです。
では、懐が深いプレーができるプレーヤーとは、どういうプレーヤでしょうか?
この答えは、簡単です。スイングがループ状ではなく、直線状のタイプのプレーヤーです。ループ状のプレーヤー(たとえば、メシールと同世代でいうと、アガシやヴィランデル)の場合、ボールのヒッティングポイントが点になります。ボールの飛球線とループの交差点のみが打点になります。いわゆる、スピン系のフォアハンドストロークです。
一方、直線的なストロークの場合には、ボールとスイングの飛球線を重ねることで、打点を広くとることができます。したがって、差し込まれた場合でも、ボールを打ち返すチャンスが増えるので、「懐が深い」ことになるのです。いわゆる、フラット系のストロークが、これに該当します。
もう一つ、フォアハンドに関していうと、グリップが薄いことが、懐が深いことの必要条件になります。厚いグリップは、体の前のほうでしか打点があり得ませんが、薄いグリップは打点を後ろにすることができます。(くどいようですが、打点が後ろになるのは、特別な場合だけです。)最近のテニスでは、ほとんどの選手のフォアハンドグリップが厚いので、懐の深いフォアハンドストロークを見ることは、ほとんどなくなりました。
繰り返しますが、懐が深いストロークが打てるからと言って、打点を前に(体重を乗せて)打つことができる時に、あえて、打点を後ろにすることはありません。それは、力強いボールを打つという意味では、不利になります。メシールは、フォアハンドでも、バックハンドでも、まれに、スイングを瞬間的に遅らせることで、意図的に打点を後ろにして、逆クロスにボールを運ぶ打ち方をしていました。これは、格下の相手に対しては特に有効な技術でした。アマチュアにはなかなか難しい高等技術ですが、私も、いつかは挑戦してみたいと思っています。
さて、話を戻しましょう。というよりも、すでに、結論は出ています。懐が深いメシールのプレーをコピーする際に、決して、打点を遅らせてはいけないということです。打点を遅らせるのは、仕方がない場合、または意図的にそれを行う場合であって、基本は(普段は)、打点は前です。他のプレーヤーと同じです。
このことは、フォアハンド、バックハンド、どちらも同じです。実は、特に気を付けるべきは、バックハンドの場合です。メシールのテニスでは、フォアハンドはもちろん、バックハンドでも打点を後ろにおいてはいけません。正確に調べたわけではありませんが、メシールの両手バックハンドは、他の両手バックハンドと比較した場合でも、打点は前なのではないかと思います。(少なくとも、他のプレーヤーよりも後ろということはないはずです。)このことは、また、別の機会に書こうと思います。
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2011年08月05日
フェデラーがNo.1に復帰するためには (Winning Ugly?)
少し前に、美しいテニスは機能的なテニスという記事を書きました。美しいテニスは、機能的であるだけではなく、強いテニスでもあるというのが、今回のお話です。
ご存知かもしれませんが、メシールと同時代を戦ったアメリカ人選手の一人であるブラッド・ギルバードの著書に"Winning Ugly"があります。和訳すると、「かっこ悪くても勝つ!」でしょうか。日本の出版社は、直訳では日本では売れないと判断したのでしょう。日本語版では「読めばテニスが強くなる」という、当たり障りのない(?)タイトルになっています。
ニューヨークのテニス仲間さん(Tennisunakama in New Yorkさん)が、このWinning Uglyについて、面白い文章を書いておられます。
美しいテニスと、勝つためのテニス。フェデラーはトップから陥落したことで、美しいテニスの呪縛から放たれて、勝つためのテニスに向かうことができるか、という内容です。とても面白い視点です。
フェデラーのテニスもメシールのテニスも、美しいテニスです。そして、二人とも、私の好きなテニスプレーヤーです。
当然ですが、二人は、美しいテニスを目指してテニススタイルを築き上げたとは思えません。勝つために選んだテニスのスタイルが、結果として美しいテニスだったのです。
私は、ずっと、美しいテニスこそが強いテニスであると信じてきました。いえ、今でもそう信じています。なぜなら、美しいテニスには無駄がないからです。無駄がないテニスとは、言い換えると、より高い身体能力を引き出すテニスです。つまり、美しいテニスは、勝つためのテニスなのです。
(私には)あまり美しいとは思えないテニスプレーヤーの筆頭がナダルです。ナダルは、その驚異的な自身の身体能力で、強引とも思えるフォームから恐ろしいほどのボールを打ちます。そのナダルは、フェデラーから再度、No.1の座を奪い返しました。(今は、さらに、ジョコビッチがNo.1ですが。ジョコビッチのテニスについては、また、別項で書きたいと思います。)
私は、1位から陥落した(今や3位に後退しました)フェデラーの進むべき道は、ニューヨークのテニス仲間さんが書いておられるようなWinning Uglyではないと信じています。
フェデラーには、美しいテニスを極めることでNo.1に返り咲いてほしいのです。
ナダルのプレースタイルは、身体能力を現在以上に引き上げることは、難しいと思います。あのテニスで、これ以上身体に負担をかけると、本当に体を壊してしまうでしょう。
年齢的に考えてもナダルほどには身体能力を有さないフェデラーがNo.1に返り咲くためには、身体能力のポテンシャルを100%引き出さねばなりません。今までが、99%だとしたら、さらに残りの1%を引き出すのです。
200の身体能力を50%発揮するナダルと、100の身体能力を100%発揮するフェデラー。
この縮図の中で、フェデラーは再起を目指すべきだと思います。「99%を100%に。」これが、私が考える、フェデラーの復活の道筋です。
フェデラーがNo.1に復帰できた時、それは、おそらく、究極の美しいテニスがそこにあるに違いありません。
⇒このブログの元記事はこちらです。
ご存知かもしれませんが、メシールと同時代を戦ったアメリカ人選手の一人であるブラッド・ギルバードの著書に"Winning Ugly"があります。和訳すると、「かっこ悪くても勝つ!」でしょうか。日本の出版社は、直訳では日本では売れないと判断したのでしょう。日本語版では「読めばテニスが強くなる」という、当たり障りのない(?)タイトルになっています。
ニューヨークのテニス仲間さん(Tennisunakama in New Yorkさん)が、このWinning Uglyについて、面白い文章を書いておられます。
美しいテニスと、勝つためのテニス。フェデラーはトップから陥落したことで、美しいテニスの呪縛から放たれて、勝つためのテニスに向かうことができるか、という内容です。とても面白い視点です。
フェデラーのテニスもメシールのテニスも、美しいテニスです。そして、二人とも、私の好きなテニスプレーヤーです。
当然ですが、二人は、美しいテニスを目指してテニススタイルを築き上げたとは思えません。勝つために選んだテニスのスタイルが、結果として美しいテニスだったのです。
私は、ずっと、美しいテニスこそが強いテニスであると信じてきました。いえ、今でもそう信じています。なぜなら、美しいテニスには無駄がないからです。無駄がないテニスとは、言い換えると、より高い身体能力を引き出すテニスです。つまり、美しいテニスは、勝つためのテニスなのです。
(私には)あまり美しいとは思えないテニスプレーヤーの筆頭がナダルです。ナダルは、その驚異的な自身の身体能力で、強引とも思えるフォームから恐ろしいほどのボールを打ちます。そのナダルは、フェデラーから再度、No.1の座を奪い返しました。(今は、さらに、ジョコビッチがNo.1ですが。ジョコビッチのテニスについては、また、別項で書きたいと思います。)
私は、1位から陥落した(今や3位に後退しました)フェデラーの進むべき道は、ニューヨークのテニス仲間さんが書いておられるようなWinning Uglyではないと信じています。
フェデラーには、美しいテニスを極めることでNo.1に返り咲いてほしいのです。
ナダルのプレースタイルは、身体能力を現在以上に引き上げることは、難しいと思います。あのテニスで、これ以上身体に負担をかけると、本当に体を壊してしまうでしょう。
年齢的に考えてもナダルほどには身体能力を有さないフェデラーがNo.1に返り咲くためには、身体能力のポテンシャルを100%引き出さねばなりません。今までが、99%だとしたら、さらに残りの1%を引き出すのです。
200の身体能力を50%発揮するナダルと、100の身体能力を100%発揮するフェデラー。
この縮図の中で、フェデラーは再起を目指すべきだと思います。「99%を100%に。」これが、私が考える、フェデラーの復活の道筋です。
フェデラーがNo.1に復帰できた時、それは、おそらく、究極の美しいテニスがそこにあるに違いありません。
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2011年08月04日
テニスのトレンド~メシールのテニスは古いのか?
1987年の全米オープンでメシール対ヴィランデル戦(準々決勝)のゲスト解説者は、(今は亡き)アーサー・アッシュ氏でした。アッシュ氏は、まだ、それほど、有名ではなかったメシールについて、インタビュアーに「この選手をどう思いますか」と質問されたときに、こんな風に答えています。「彼のプレーを見ていると、どこのテニスクラブにもいるカジュアルプレーヤーのようだ。」
カジュアルプレーヤーのようだというコメントを、私は、ほかのメシールのビデオでも聞いたことがあります。メシール自身も、昔のインタビューで、「自分のプレースタイルは、(レベルの高い)クラブプレーヤーだった父親の影響を受けています」と答えていたことがあります。
当時ですらカジュアルプレーヤーのようだと言われていたわけですから、現代テニスから見ると、メシールのプレースタイルはオールドスタイル中のオールドスタイルと言ってもよいでしょう。
テニス365の技術特集・フォアハンド編を見てみると、メシールのテニスが、現代テニスとはかなり違うことが変わります。現代テニスとは、全く正反対である技術も、多々あるようです。例えば、「ラケットは下から上ではなく体の回転を使った横方向のスイングが望ましい」とか、「テイクバックではラケットを立てる」などは、メシールのテニスとは正反対です。
テニスの道具(特にラケット)の進化により、この20年で、テニスの技術は明らかに変わりました。おそらく、プロの世界、特に男子のトッププロの世界では、メシールのテニスは、もはやトレンドにはならないのかもしれません。しかし、それでも、メシールのテニスの美しさは、私は消えることはないように思います。今のテニスが、「力強さ」を優先するあまり、かつての「美しさ」を失ってしまった今、私は、メシールの美しいテニスを、アマチュアの世界の中で残したいと思っています。
メシールのテニスは、力強さ(パワー)よりも、正確さを優先するテニスです。特に、薄いグリップでボールを運ぶようにゆっくりとスイングするフォアハンドは、厚いグリップで高速にラケットを振ることでボールを強く打つ(たたく)現代のテニスと比べると、実は制約の多いフォームです。そのため、(別項でも述べますが)実際にテニスコートでメシールのテニスを実現すると、パワーがないために「打ち負ける」「球が浅くなる」などということが多くなりがちです。
しかし、考えてみると、パワーのあるラケットが増えている現代、昔のパワーレスなウッドラケットや薄いラケットと比べると、現代のラケットは、メシールのフォームではパワーが出ないという弊害に陥りにくい環境にあるはずです。(そう考えると、パワーのでないウッドラケットを最後まで手放さなかったメシールは、不思議な選手です。)
もうひとつ、メシールのテニスに必要なのは、ラケットの重さです。メシールのストロークでは、ラケットの重さが果たす役割は大きいのです。これについては、現代のラケットが軽くなっているおかげで、実現は容易です。重いラケットを軽くすることはできませんが、軽いラケットを重くするのは難しくありません。Uリードテープをべたべた貼ればよいのですから。)したがって、ラケットの重さについては、現代テニスであっても問題にはなりません。
技術的には古くなったメシールのテニスを、アマチュアが実現する環境は、かつてよりも整ってきているのかもしれません。
カジュアルプレーヤーのようだというコメントを、私は、ほかのメシールのビデオでも聞いたことがあります。メシール自身も、昔のインタビューで、「自分のプレースタイルは、(レベルの高い)クラブプレーヤーだった父親の影響を受けています」と答えていたことがあります。
当時ですらカジュアルプレーヤーのようだと言われていたわけですから、現代テニスから見ると、メシールのプレースタイルはオールドスタイル中のオールドスタイルと言ってもよいでしょう。
テニス365の技術特集・フォアハンド編を見てみると、メシールのテニスが、現代テニスとはかなり違うことが変わります。現代テニスとは、全く正反対である技術も、多々あるようです。例えば、「ラケットは下から上ではなく体の回転を使った横方向のスイングが望ましい」とか、「テイクバックではラケットを立てる」などは、メシールのテニスとは正反対です。
テニスの道具(特にラケット)の進化により、この20年で、テニスの技術は明らかに変わりました。おそらく、プロの世界、特に男子のトッププロの世界では、メシールのテニスは、もはやトレンドにはならないのかもしれません。しかし、それでも、メシールのテニスの美しさは、私は消えることはないように思います。今のテニスが、「力強さ」を優先するあまり、かつての「美しさ」を失ってしまった今、私は、メシールの美しいテニスを、アマチュアの世界の中で残したいと思っています。
メシールのテニスは、力強さ(パワー)よりも、正確さを優先するテニスです。特に、薄いグリップでボールを運ぶようにゆっくりとスイングするフォアハンドは、厚いグリップで高速にラケットを振ることでボールを強く打つ(たたく)現代のテニスと比べると、実は制約の多いフォームです。そのため、(別項でも述べますが)実際にテニスコートでメシールのテニスを実現すると、パワーがないために「打ち負ける」「球が浅くなる」などということが多くなりがちです。
しかし、考えてみると、パワーのあるラケットが増えている現代、昔のパワーレスなウッドラケットや薄いラケットと比べると、現代のラケットは、メシールのフォームではパワーが出ないという弊害に陥りにくい環境にあるはずです。(そう考えると、パワーのでないウッドラケットを最後まで手放さなかったメシールは、不思議な選手です。)
もうひとつ、メシールのテニスに必要なのは、ラケットの重さです。メシールのストロークでは、ラケットの重さが果たす役割は大きいのです。これについては、現代のラケットが軽くなっているおかげで、実現は容易です。重いラケットを軽くすることはできませんが、軽いラケットを重くするのは難しくありません。Uリードテープをべたべた貼ればよいのですから。)したがって、ラケットの重さについては、現代テニスであっても問題にはなりません。
技術的には古くなったメシールのテニスを、アマチュアが実現する環境は、かつてよりも整ってきているのかもしれません。
2011年08月03日
真にマナーの良いプレーヤーは誰か?
私は、20年近く、つまりメシールが引退してから最近まで、ほとんどテニスの試合を見ていませんでした。スタジアムに出向くことはもちろん、テレビで観戦することもありませんでした。仕事が忙しくて、テニスから遠ざかっていた20年間でした。
2年ほど前から再びラケットを握るようになり、それが理由でしょうか、今年(2011年)に入ってからは、時々、テレビ観戦するようになりました。今年の全仏オープンでは、李娜(Na Li)という選手の決勝戦を見たくて、WOWOWにも加入しました。
私がテニス観戦を再開して一番驚いたのは、コートによってはチャレンジというシステムが導入されていたことです。このシステムはあまりにもマンガ的で、初めて見た時には、正直なところ笑ってしまいました。「人間の判定に不満があるときは、機械(センサー)に再判定してもらうなんて…」という感じです。
笑ってしまったのは、後述しますが、スポーツにおけるジャッジというものを、このシステムは根底から無視しているからというのも理由です。こんなシステムが導入されては、プレーヤーはジャッジに苦情を言うことはできなくなりますね。確かに。
余談ですが、このシステムが、RICOH(リコー社)という日本企業が作ったシステムであることにも、別の意味で感心しました。「ああ、テニスコート上で日本が真価を発揮するのは、選手よりも企業なのか…」と。セイコーの時計やダンロップのボール、本当にテニスコートには、日本製品がいろいろなところで活躍しています。
さて、久しぶりにプロのテニスの試合を見て驚いたのは、プレーヤーたちのマナーの良さです。私がかつて見たプレーヤーたち、マッケンロー、コナーズ、レンドル…と比べて、フェデラー、ナダル、ジョコビッチ…たちの、マナーの良いこと。
これは、どうも、チャレンジシステムのおかげだけではなさそうです。
かなりの想像で書きますが、このことは、いろいろなことを示唆しているように思います。たとえば、私が(マナーがよろしくない)たとえで書いた3人は、3人ともアメリカ人(マッケンロー、コナーズ)であるか、またはアメリカに事実上移住した選手(レンドル)です。一方、現在の3名は、3人ともヨーロッパ人です。
アメリカでは、プロスポーツは興業です。エンターテイメントです。表現がよくないのを承知で書くと、アメリカではプロスポーツは観客を喜ばせ、興奮させるための商品です。
一方で、ヨーロッパでは、スポーツに違う香りがします。李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦で書いたように、伝統あるテニススタジアムの空気はヨーロッパの文化の中に溶け込んでいるように思えます。
私がテニスを見なかった20年間で、テニスは、やっと、興業から伝統的スポーツに昇華したのかもしれません。(その中で、チャレンジシステムが果たした役割はさして大きくないと思いますが…。)
ちょうど私がメシールのテニスを見ていたころの選手の一人に、アメリカのブラッド・ギルバードという選手がいます。メシールがオリンピックの決勝戦で戦っているときに、エドバーグと一緒にその決勝戦の会場にいたギルバードの姿をよく覚えています。ギルバートは準決勝で同じアメリカのメイヨットに敗れて、表彰式のために決勝戦を観戦していた(させられていた?)のです。
このギルバートに、Winning Ugly(格好悪くても勝つ)という著書があります。この著書の中で、当時の興業ベースのプロテニスツアーの当時の姿が描かれています。興業のために、強いマッケンロー、強いコナーズが陽に陰に特別扱いされていた様子が。
さて、そんな当時の男子プロテニス界にも、マナーがよい選手は大勢いました。チェコスロバキア(今はスロバキア)のプロテニス選手であるメシール(メチージュ)は、その中でもひときわマナーがよい選手でした。
さて、ここからがこの稿の本題です。ここでは、メシールのプレーマナーを思い出しながら、プロスポーツの試合でマナーがよいということは、何を意味するのかについて考えてみたいと思います。
私は、メシールの(当時の)試合のDVDをいろいろな形で手に入れて、今、20~30試合程度持っています。こんなにたくさんメシールのDVDを持っている人は、日本では他にあまりいないのではないでしょうか?私の貴重なコレクションです。(ちょっと自慢です(笑)。)
もちろん、すべての試合を、目を皿のよう何度も見ました。1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦などは、もう、何度見たことがわかりません。別項で書きますが、この試合は、私が見たすべてのテニスの試合でベストマッチです。
メシールのプレーを見て、特筆すべきことの一つが、そのプレーマナーです。プロの男子テニス選手で、当時、ここまで審判にクレームをつけることがない選手を、私は他に知りません。負けそうな試合ですら、ジャッジに文句も言わずに淡々とプレーするので、逆に「メシールはやる気があるのか」と思うことがあるぐらいです。どうしてもクレームをつける時には、アウトした場所にボールを置いて審判を見ずにそっぽに歩いていったり、観客席に座って他のお客さんと一緒に「アウトじゃないか」というそぶりをしたり、ユーモアいっぱいで殺伐とした雰囲気にならないやり方でした。
当時(1980年代後半)のテニスプレーヤーでマナーがよい選手としては、例えばヴィランデルがいます。ヴィランデルも、本当にマナーの良いプレーヤーでした。そのヴィランデルですら、それでも、時々審判に文句を言っているのを見ました。
メシールがはっきりと態度でクレームをつけたのは、私のコレクションの中では、ただ一度だけです。それは、1987年のKey Biscayne(アメリカ)でのリプトン国際の決勝戦です。決勝戦の相手は、メシールが苦手としているレンドル。この試合、メシールは珍しくエキサイトしており、試合中、一度、線審に大きな身振りで激しく抗議をしました。レンドルのストロークがベースラインをアウトしていたにも関わらず線審に「イン」と判断されたからです。
メシールがこんなに激しく抗議をするのを見たのは、後にも先にも、この一度だけです。と言っても、そのただ一度ですら、(判定は覆らないのですから)あっさりと引き下がったのですが。(わめきまわり、暴れまわるマッケンローとは大違い。)
なお、皮肉なことに、メシールが公式戦でレンドルに勝利したのは、メシールのキャリアの中で、この一度だけでした。趣味がつりだと言うメシールが、試合後のインタビューで「でっかい魚を釣り上げた」とコメントしたのは有名です。
メシールの、抗議とは全く正反対のシーンを見たことがあります。上に書いた、1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦です。この試合のあるポイントで、エドバーグのファーストサーブがコーナーいっぱいにきれいに決まった時に、線審が「アウト!」とコールしたのです。え?と、驚くエドバーグ。しかし、メシールは、審判に対して何も言わず、当たり前のように「すたすた」と次のレシーブポジションに歩いて行ったのです。
会場がややどよめく中で、エドベリが日本流のスタイルでメシールに向かってお礼のお辞儀をした姿も印象的でした。その後、メシールもエドベリも、何事もなかったようにプレーを続けたのです。
この試合では、マッチポイントでメシールのボレーがネットした後の、メシールの態度が素敵でした。勝利してバンザイをしながらコート後ろの壁に倒れこむエドバーグ。そのエドバーグに向かって、メシールはネットをジャンプして勝者のコートに入っていったのです。勝者をたたえる握手をするために。
セットカウント2-0から2-3で逆転負けしたメシールが、悔しくなかったはずはありません。戦いを終えた二人の選手が、ネットを挟まずに肩を並べて審判席に向かって歩む姿は、今でも私の瞼の裏にはっきりと残っています。
朝日新聞の西村欣也氏は、私の好きなコラムニストの一人です。氏は自分のコラムの中で、しばしばスポーツにおけるジャッジ(判定)について同じことを述べています。「スポーツで審判に文句を言うのは間違えている。なぜなら、“最初から審判は間違えるモノ”だからだ」と。
私も、その意見に賛成です。人間が審判をする以上、間違いは避けることができません。スポーツの試合は、特に対戦型のスポーツは、それを前提としているのです。それが、ルールの中で戦うすべてのスポーツ競技の基本です。
しかし、プロフェッショナルではない、私程度のアマチュアプレーヤーでも、ミスジャッジはつらいものです。文句を言いたくなります。ジャッジに文句を言ったことも、何度もあります。わかっていても、明らかなアウトボールをインとジャッジされると、頭に来ることもあります。それをきっかけにメンタルからガタガタと崩れてしまうこともあります。それが、まあ、普通の(平凡な)人間でしょう。
そう考えると、トッププロでいながら、淡々とプレーするメシールの姿は、プロのスポーツプレーヤーとして、どこか、一段高いところにいるような気がしてならないのです。
当時、メシールと究極の反対の態度を取っていたのが、ご存知、米国のジョン・マッケンローでした。マッケンローは暴言を吐き散らしながら観客の拍手喝さいを浴び、そして、多くのメジャータイトルを取りました。
そのマッケンローは、いまだに世界中のテニスファンの記憶に残っています。一方、メシールはほとんど知られることなく、人々の記憶に残ることなく、短い選手生活を終えました。今、日本でメシールという選手を覚えている人は、熱心なテニスファンでもほんの一握りでしょう。
暴言を吐いてでも、ラインコールや審判に苦情を言い続けても、メジャー大会に勝つことが一番大切なのであれば、プロテニスプレーヤーというのは、なんとさびしくてむなしい職業なのでしょうか。グランドスラムで勝つごとができなかったメシールは、やはり、マッケンローには劣るのでしょうか。
私は、是非、知ってほしいのです。メシールは、もしかしたら、多くの人の記憶に残るプレーヤーではないかもしれない。メシールがテニスの世界に残したものは、マッケンローと比べて多くないのかかもしれない。でも、極東の小さな島国に、たった一人だけれども、そのプレーする姿をまぶたに焼き付け、20年以上もあこがれ続けている日本人がいることを。そのプレーは、コート上での振る舞いは、私に、テニスだけではなく、もっと大きなものとして、心の中に、今も変わらず、どっしりと残っていることを。
⇒この記事の初稿はこちらです。
2年ほど前から再びラケットを握るようになり、それが理由でしょうか、今年(2011年)に入ってからは、時々、テレビ観戦するようになりました。今年の全仏オープンでは、李娜(Na Li)という選手の決勝戦を見たくて、WOWOWにも加入しました。
私がテニス観戦を再開して一番驚いたのは、コートによってはチャレンジというシステムが導入されていたことです。このシステムはあまりにもマンガ的で、初めて見た時には、正直なところ笑ってしまいました。「人間の判定に不満があるときは、機械(センサー)に再判定してもらうなんて…」という感じです。
笑ってしまったのは、後述しますが、スポーツにおけるジャッジというものを、このシステムは根底から無視しているからというのも理由です。こんなシステムが導入されては、プレーヤーはジャッジに苦情を言うことはできなくなりますね。確かに。
余談ですが、このシステムが、RICOH(リコー社)という日本企業が作ったシステムであることにも、別の意味で感心しました。「ああ、テニスコート上で日本が真価を発揮するのは、選手よりも企業なのか…」と。セイコーの時計やダンロップのボール、本当にテニスコートには、日本製品がいろいろなところで活躍しています。
さて、久しぶりにプロのテニスの試合を見て驚いたのは、プレーヤーたちのマナーの良さです。私がかつて見たプレーヤーたち、マッケンロー、コナーズ、レンドル…と比べて、フェデラー、ナダル、ジョコビッチ…たちの、マナーの良いこと。
これは、どうも、チャレンジシステムのおかげだけではなさそうです。
かなりの想像で書きますが、このことは、いろいろなことを示唆しているように思います。たとえば、私が(マナーがよろしくない)たとえで書いた3人は、3人ともアメリカ人(マッケンロー、コナーズ)であるか、またはアメリカに事実上移住した選手(レンドル)です。一方、現在の3名は、3人ともヨーロッパ人です。
アメリカでは、プロスポーツは興業です。エンターテイメントです。表現がよくないのを承知で書くと、アメリカではプロスポーツは観客を喜ばせ、興奮させるための商品です。
一方で、ヨーロッパでは、スポーツに違う香りがします。李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦で書いたように、伝統あるテニススタジアムの空気はヨーロッパの文化の中に溶け込んでいるように思えます。
私がテニスを見なかった20年間で、テニスは、やっと、興業から伝統的スポーツに昇華したのかもしれません。(その中で、チャレンジシステムが果たした役割はさして大きくないと思いますが…。)
ちょうど私がメシールのテニスを見ていたころの選手の一人に、アメリカのブラッド・ギルバードという選手がいます。メシールがオリンピックの決勝戦で戦っているときに、エドバーグと一緒にその決勝戦の会場にいたギルバードの姿をよく覚えています。ギルバートは準決勝で同じアメリカのメイヨットに敗れて、表彰式のために決勝戦を観戦していた(させられていた?)のです。
このギルバートに、Winning Ugly(格好悪くても勝つ)という著書があります。この著書の中で、当時の興業ベースのプロテニスツアーの当時の姿が描かれています。興業のために、強いマッケンロー、強いコナーズが陽に陰に特別扱いされていた様子が。
さて、そんな当時の男子プロテニス界にも、マナーがよい選手は大勢いました。チェコスロバキア(今はスロバキア)のプロテニス選手であるメシール(メチージュ)は、その中でもひときわマナーがよい選手でした。
さて、ここからがこの稿の本題です。ここでは、メシールのプレーマナーを思い出しながら、プロスポーツの試合でマナーがよいということは、何を意味するのかについて考えてみたいと思います。
私は、メシールの(当時の)試合のDVDをいろいろな形で手に入れて、今、20~30試合程度持っています。こんなにたくさんメシールのDVDを持っている人は、日本では他にあまりいないのではないでしょうか?私の貴重なコレクションです。(ちょっと自慢です(笑)。)
もちろん、すべての試合を、目を皿のよう何度も見ました。1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦などは、もう、何度見たことがわかりません。別項で書きますが、この試合は、私が見たすべてのテニスの試合でベストマッチです。
メシールのプレーを見て、特筆すべきことの一つが、そのプレーマナーです。プロの男子テニス選手で、当時、ここまで審判にクレームをつけることがない選手を、私は他に知りません。負けそうな試合ですら、ジャッジに文句も言わずに淡々とプレーするので、逆に「メシールはやる気があるのか」と思うことがあるぐらいです。どうしてもクレームをつける時には、アウトした場所にボールを置いて審判を見ずにそっぽに歩いていったり、観客席に座って他のお客さんと一緒に「アウトじゃないか」というそぶりをしたり、ユーモアいっぱいで殺伐とした雰囲気にならないやり方でした。
当時(1980年代後半)のテニスプレーヤーでマナーがよい選手としては、例えばヴィランデルがいます。ヴィランデルも、本当にマナーの良いプレーヤーでした。そのヴィランデルですら、それでも、時々審判に文句を言っているのを見ました。
メシールがはっきりと態度でクレームをつけたのは、私のコレクションの中では、ただ一度だけです。それは、1987年のKey Biscayne(アメリカ)でのリプトン国際の決勝戦です。決勝戦の相手は、メシールが苦手としているレンドル。この試合、メシールは珍しくエキサイトしており、試合中、一度、線審に大きな身振りで激しく抗議をしました。レンドルのストロークがベースラインをアウトしていたにも関わらず線審に「イン」と判断されたからです。
メシールがこんなに激しく抗議をするのを見たのは、後にも先にも、この一度だけです。と言っても、そのただ一度ですら、(判定は覆らないのですから)あっさりと引き下がったのですが。(わめきまわり、暴れまわるマッケンローとは大違い。)
なお、皮肉なことに、メシールが公式戦でレンドルに勝利したのは、メシールのキャリアの中で、この一度だけでした。趣味がつりだと言うメシールが、試合後のインタビューで「でっかい魚を釣り上げた」とコメントしたのは有名です。
メシールの、抗議とは全く正反対のシーンを見たことがあります。上に書いた、1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦です。この試合のあるポイントで、エドバーグのファーストサーブがコーナーいっぱいにきれいに決まった時に、線審が「アウト!」とコールしたのです。え?と、驚くエドバーグ。しかし、メシールは、審判に対して何も言わず、当たり前のように「すたすた」と次のレシーブポジションに歩いて行ったのです。
会場がややどよめく中で、エドベリが日本流のスタイルでメシールに向かってお礼のお辞儀をした姿も印象的でした。その後、メシールもエドベリも、何事もなかったようにプレーを続けたのです。
この試合では、マッチポイントでメシールのボレーがネットした後の、メシールの態度が素敵でした。勝利してバンザイをしながらコート後ろの壁に倒れこむエドバーグ。そのエドバーグに向かって、メシールはネットをジャンプして勝者のコートに入っていったのです。勝者をたたえる握手をするために。
セットカウント2-0から2-3で逆転負けしたメシールが、悔しくなかったはずはありません。戦いを終えた二人の選手が、ネットを挟まずに肩を並べて審判席に向かって歩む姿は、今でも私の瞼の裏にはっきりと残っています。
朝日新聞の西村欣也氏は、私の好きなコラムニストの一人です。氏は自分のコラムの中で、しばしばスポーツにおけるジャッジ(判定)について同じことを述べています。「スポーツで審判に文句を言うのは間違えている。なぜなら、“最初から審判は間違えるモノ”だからだ」と。
私も、その意見に賛成です。人間が審判をする以上、間違いは避けることができません。スポーツの試合は、特に対戦型のスポーツは、それを前提としているのです。それが、ルールの中で戦うすべてのスポーツ競技の基本です。
しかし、プロフェッショナルではない、私程度のアマチュアプレーヤーでも、ミスジャッジはつらいものです。文句を言いたくなります。ジャッジに文句を言ったことも、何度もあります。わかっていても、明らかなアウトボールをインとジャッジされると、頭に来ることもあります。それをきっかけにメンタルからガタガタと崩れてしまうこともあります。それが、まあ、普通の(平凡な)人間でしょう。
そう考えると、トッププロでいながら、淡々とプレーするメシールの姿は、プロのスポーツプレーヤーとして、どこか、一段高いところにいるような気がしてならないのです。
当時、メシールと究極の反対の態度を取っていたのが、ご存知、米国のジョン・マッケンローでした。マッケンローは暴言を吐き散らしながら観客の拍手喝さいを浴び、そして、多くのメジャータイトルを取りました。
そのマッケンローは、いまだに世界中のテニスファンの記憶に残っています。一方、メシールはほとんど知られることなく、人々の記憶に残ることなく、短い選手生活を終えました。今、日本でメシールという選手を覚えている人は、熱心なテニスファンでもほんの一握りでしょう。
暴言を吐いてでも、ラインコールや審判に苦情を言い続けても、メジャー大会に勝つことが一番大切なのであれば、プロテニスプレーヤーというのは、なんとさびしくてむなしい職業なのでしょうか。グランドスラムで勝つごとができなかったメシールは、やはり、マッケンローには劣るのでしょうか。
私は、是非、知ってほしいのです。メシールは、もしかしたら、多くの人の記憶に残るプレーヤーではないかもしれない。メシールがテニスの世界に残したものは、マッケンローと比べて多くないのかかもしれない。でも、極東の小さな島国に、たった一人だけれども、そのプレーする姿をまぶたに焼き付け、20年以上もあこがれ続けている日本人がいることを。そのプレーは、コート上での振る舞いは、私に、テニスだけではなく、もっと大きなものとして、心の中に、今も変わらず、どっしりと残っていることを。
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2011年08月03日
美しいテニスは機能的なテニス
このブログは、チェコスロバキア(現スロバキア)の往年の名選手であるミロスラフ・メシール(メチールまたはメチージュ)について、自由に書くためのブログです。
メシールは、1980年代の後半に活躍した右利きプレーヤーです。シングルスの最高ランキングは第4位でしたので、それほど有名な選手ではなかったかもしれません。今は、メシールのことを覚えているテニスファンは少ないでしょう。
1990年のウィンブルドンで引退するまで、全豪オープンと全米オープンで決勝戦、ウィンブルドンと全仏オープンで準決勝戦まで進んだことがありますが、グランドスラムではシングルス・ダブルス、ともに優勝はありません。
その代わりに、メシールにはオリンピックでのシングルス優勝という輝かしい記録が残っています。これが、メシールのキャリアで最高の成績と言ってよいでしょう。
そんなメシールですので、今、その試合を見る機会はあまりありません。Youtubeにはいくつか、当時の試合の映像があります。興味がある方は、ぜひ、一度、見ていただきたいと思います。
現代テニスから見れば、メシールのテニスは、オールドスタイルに見えると思います。いや、当時ですら、メシールのテニスはクラシックだと言われていました。
さて、なぜ、私が、メシールのことを好きなのか。それは、「美しいと思うから」です。メシールのプレーは、美しい。だから、私は、メシールのプレーが好きです。
かつて、作家の村上龍氏がこんなことを書いていました。資料が手元にないので、思い出しながら書いてみます。
村上龍氏が、ソルボンヌ大学哲学科の女子学生を連れて、全仏オープンの観戦に行った時のことです。村上龍氏によると「フランスのインテリは、スポーツなど見ない」そうなのですが、彼女も、テニスを観戦するの初めてで、テニスを全然知らなかったとか。もちろん、テニスの選手のこともなにも知らない。その彼女が、メシールのプレーを見ていったそうです。
「きれいね」と。
別項で書こうと思いますが、美しいということは、スポーツの世界では、機能的であるということでもあります。勝敗を追求するスポーツの世界において、強い選手に美しいプレースタイルが多いのは、理由があるのです。
このブログでは、そんなことも考えてみたいと思います。
メシールは、1980年代の後半に活躍した右利きプレーヤーです。シングルスの最高ランキングは第4位でしたので、それほど有名な選手ではなかったかもしれません。今は、メシールのことを覚えているテニスファンは少ないでしょう。
1990年のウィンブルドンで引退するまで、全豪オープンと全米オープンで決勝戦、ウィンブルドンと全仏オープンで準決勝戦まで進んだことがありますが、グランドスラムではシングルス・ダブルス、ともに優勝はありません。
その代わりに、メシールにはオリンピックでのシングルス優勝という輝かしい記録が残っています。これが、メシールのキャリアで最高の成績と言ってよいでしょう。
そんなメシールですので、今、その試合を見る機会はあまりありません。Youtubeにはいくつか、当時の試合の映像があります。興味がある方は、ぜひ、一度、見ていただきたいと思います。
現代テニスから見れば、メシールのテニスは、オールドスタイルに見えると思います。いや、当時ですら、メシールのテニスはクラシックだと言われていました。
さて、なぜ、私が、メシールのことを好きなのか。それは、「美しいと思うから」です。メシールのプレーは、美しい。だから、私は、メシールのプレーが好きです。
かつて、作家の村上龍氏がこんなことを書いていました。資料が手元にないので、思い出しながら書いてみます。
村上龍氏が、ソルボンヌ大学哲学科の女子学生を連れて、全仏オープンの観戦に行った時のことです。村上龍氏によると「フランスのインテリは、スポーツなど見ない」そうなのですが、彼女も、テニスを観戦するの初めてで、テニスを全然知らなかったとか。もちろん、テニスの選手のこともなにも知らない。その彼女が、メシールのプレーを見ていったそうです。
「きれいね」と。
別項で書こうと思いますが、美しいということは、スポーツの世界では、機能的であるということでもあります。勝敗を追求するスポーツの世界において、強い選手に美しいプレースタイルが多いのは、理由があるのです。
このブログでは、そんなことも考えてみたいと思います。
2011年08月01日
<おススメ記事>たった5歩のダンス
メシールのテニスについて、別ブログから引っ越し中です。
この機会に、記事を全部読み返して、整理してから書き直そうと考えています。
時間がかかりそうなので、これまで書いた記事の中で、特に、自分で気に入っている記事やアクセス数が多い記事を、ご紹介させていただこうと思います。
今回は、たった5歩のダンスです。
今日も、メシールのテニスをDVDで見ていましたが、やはり、ステップワークが素晴らしいです。私も、早くテニスのフォームを固めて、このステップワークをコピーするレベルに進みたいと、改めて思いました。
⇒元記事はこちらをご覧ください:たった5歩のダンス
この機会に、記事を全部読み返して、整理してから書き直そうと考えています。
時間がかかりそうなので、これまで書いた記事の中で、特に、自分で気に入っている記事やアクセス数が多い記事を、ご紹介させていただこうと思います。
今回は、たった5歩のダンスです。
今日も、メシールのテニスをDVDで見ていましたが、やはり、ステップワークが素晴らしいです。私も、早くテニスのフォームを固めて、このステップワークをコピーするレベルに進みたいと、改めて思いました。
⇒元記事はこちらをご覧ください:たった5歩のダンス