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メシールのテニス 昔懐かしいスロバキアのミロスラフ・メシールの話題を中心に、テニスに関することをアマチュアの視点から自由に書いています。なお、私はテニス専門家ではないので、何か正しくないことを書いているかもしれませんが、その点、ご容赦ください。

メシール
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ナダルの初戦敗退

心配していたのですが、WOWOW Tennis Onlieで、ナダルが3年3か月ぶりの初戦敗退(記事はこちら)というニュースが入ってきました。

私はプロのテニスプレーヤーではないですが、トッププロにとって、モチベーションの維持がどれほど重要であるかは、想像がつきます。

私は、ウインブルドン2011の男子決勝戦の直前に書いたブログ「ウィンブルドン2011男子決勝戦を前に ナダル-ジョコビッチ」で、この決勝戦後のナダルが心配でした。燃え尽きてしまうのではないか…と。

ナダルがこのままずるずると引き下がるとは思えないのですが、一方で、どうしてもジョコビッチに勝てない(すでに、今年に入って一度も勝てていない)とすると、そのモチベーションをどう維持するのかが心配なのです。

全米オープンに向けた、そして全米オープンでのナダルに注目したいと思います。
日記 | 投稿者 メシール 00:04 | コメント(2)| トラックバック(0)

なでしこJAPANから学ぶべきこと(デ杯とフェド杯)

昨日(正確には一昨日)、女子のサッカーワールドカップで、日本が優勝しました。サッカーについては、日本は、おそらく(男子はもちろん女子も)欧米から遅れている競技だったと思いますので、これは、本当に快挙と言ってよいでしょう。

私は、今回の試合(アメリカとの決勝戦)内容についてはダイジェストで見ただけなので詳しくは分かりませんが、かなりの僅差での勝利だったようです。したがって、今後、日本女子チームがトップに君臨するというような強さというよりも、どちらかというと、この大会で、神がかり的な強さで優勝したような印象を受けました。(もちろん、それが、優勝の価値を少しも下げるものではないのですが。)

ふと、テレビや新聞を見ても、とても大きな扱いで、少し前のオリンピックで、女子ソフトボールが優勝した時のことを思い出しました。あの時も、メディアはかなりの扱いだったように記憶しています。

さて、ここからが本題です。

女子ソフトボールも、女子サッカーも、長い歴史とは言えない中で世界の頂点を極めたのに、なぜ、(女子)テニスはそうならないのか。

佐藤純朗著「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」というノンフィクション」の中で、著者は、かなりのページを割いて、当時のフェデレーションカップの運営についての不満を書いています。当時のフェデレーションカップは、伊達・沢松(神尾ですら試合に出場できない!)という相当な布陣を敷きながら、しかし、勝利することを最優先した運営ができていなかったというのです。

私は、事の真偽を知る立場にいませんので正しく判断することはできないのですが、しかし、日本の女子(おそらく男子も)テニスが世界に通用することを目指した運営体制になっていないだろうなということは、容易に想像がつきます。そう感じる理由は簡単で、実際に日本は、男子はもちろん、女子も、ナショナルチームが世界の頂点を極めることができていないからです。(男子はデビスカップチーム、女子はフェデレーションカップチームです。)頂点を極めるどころか、ワールドグループに入ることすら、ほとんどできていない現状です。

世界のスポーツにおいて、ナショナルチームの強化体制の成果が出やすいのは、女子です。これは、ほとんどの競技において、女子の方が男子よりも競技人口数が少ない(選手層が薄い)からです。もちろん、そのことが、女子競技の方が男子競技よりも劣るということを意味しているわけではありません。ただ、協会が本腰でナショナルチームの強化策を打てば、少なくとも、女子については、世界での戦いにおいてもその効果は出やすいはずなのです。しかし、ソフトボールやサッカーと比較しても浅いとは思えない歴史のあるテニスでは、その強化策は、残念ながら機能しているようには見えません。

この書籍の指摘だけではありません。フェデレーションカップではないですが、今年のデビスカップについて、山口奈緒美さんが「デ杯で日本勝利も、手放しで喜べない現状」という記事を書いています。これは、ナショナルチーム強化の話ではないですが、この文章からも、会場選択がベストの解になっていない(日本チームが勝つことが最優先になっているようには見えない)という日本のテニス界の現状が、透けて見えるような気がします。

この現状をどのようにすれば改善できるのか。

これについても、私がそれを述べる立場にはありません。ただ、部外者として無責任にコメントをするならば、とても大切なことを一つだけ、指摘したいと思います。

それは、現役を終えた選手が、現場を離れて、経営側・運営側に参加することです。男女のテニス協会だけではなく、スポンサー、企画、代理店、経営…など、あらゆる方面に、現役経験者が入り込んでいくことです。特に、世界を知っているプレーヤーの仕事は重要です。

プレーヤーは、現場が好きです。引退しても、現場が好きです。コーチになったり、テレビや雑誌の解説者になったりの方が、きっと、楽しいはずです。

しかし、それでは、ナショナルチームの強化は難しいのです。現場をよく知っている者が、現場をあきらめてでもコミッションする側に入り込み、プランニングする側に入り込む。代理店や資金運営を含めた経営側に入り込む。これらは、スポーツ選手にとっては楽しい仕事ではないでしょう。しかし、それを行わない限り、日本のテニスのナショナルチームが世界のひのき舞台に出ていくことは難しいと思います。

野球やサッカーと比べて、テニスの場合は経営規模が小さいから…というのは、言い訳にはなりません。女子ソフトボールも、女子サッカーも、ビジネスとして成立するだけのパイがあったわけではないのですから…。

このことについては、きっとまた、どこかで、さらに詳しく書く機会があると思います。
日記 | 投稿者 メシール 15:04 | コメント(0)| トラックバック(0)

懐が深いということ

メシールのストロークは、しばしば、「懐(ふところ)が深い」と評されます(いました)。懐が深いというのは、どういうことでしょうか?今回は、メシールの懐の深さを分析してみようと思います。

一般的に言うと、懐が深いということは、打点が後ろであるといってよいでしょう。一瞬、差し込まれたように見える場合でもボールを打ち返すことができる。しかも、差し込まれて苦し紛れに打ち返すのではなく、きちんとボールをコントロールするということです。場合によっては、振り遅れたと思った相手が想像しない方向に打ち返すということもあります。

しかし、ここで、注意する点があります。懐が深い(メシールの)ストロークは、常に打点が後ろであるということではないということです。このことを間違えると、メシールのテニスを誤って理解することになります。

現代のテニスにおいて、常にフォアハンドストロークの打点を後ろにおいているプロテニスプレーヤーは、存在しません。どんなにグリップが薄くてもです。かつてのプレーヤーでは、マッケンローがそうでしたが、そのフォアハンドは決して安定しているというものではありませんでした。

打点が後ろになってもボールに勢いを与えることができるのは、相手のボールに勢いがあるときだけです。自分の体重移動を使わずに、相手のボールの勢いを使って小さいスイングと正確なラケット面でボールを打ち返す場合のみなのです。いわゆる、「面を作ってボールを打ち返す」ということです。

相手のボールが普通の(または勢いのない)ボールであれば、基本は、打点を前にして、しっかりと前足に体重移動することでボールを打つのが、ストロークの基本です。これは、あらゆるタイプのプレーヤーに共通したことです。

では、懐が深いプレーができるプレーヤーとは、どういうプレーヤでしょうか?

この答えは、簡単です。スイングがループ状ではなく、直線状のタイプのプレーヤーです。ループ状のプレーヤー(たとえば、メシールと同世代でいうと、アガシやヴィランデル)の場合、ボールのヒッティングポイントが点になります。ボールの飛球線とループの交差点のみが打点になります。いわゆる、スピン系のフォアハンドストロークです。

一方、直線的なストロークの場合には、ボールとスイングの飛球線を重ねることで、打点を広くとることができます。したがって、差し込まれた場合でも、ボールを打ち返すチャンスが増えるので、「懐が深い」ことになるのです。いわゆる、フラット系のストロークが、これに該当します。

もう一つ、フォアハンドに関していうと、グリップが薄いことが、懐が深いことの必要条件になります。厚いグリップは、体の前のほうでしか打点があり得ませんが、薄いグリップは打点を後ろにすることができます。(くどいようですが、打点が後ろになるのは、特別な場合だけです。)最近のテニスでは、ほとんどの選手のフォアハンドグリップが厚いので、懐の深いフォアハンドストロークを見ることは、ほとんどなくなりました。

繰り返しますが、懐が深いストロークが打てるからと言って、打点を前に(体重を乗せて)打つことができる時に、あえて、打点を後ろにすることはありません。それは、力強いボールを打つという意味では、不利になります。メシールは、フォアハンドでも、バックハンドでも、まれに、スイングを瞬間的に遅らせることで、意図的に打点を後ろにして、逆クロスにボールを運ぶ打ち方をしていました。これは、格下の相手に対しては特に有効な技術でした。アマチュアにはなかなか難しい高等技術ですが、私も、いつかは挑戦してみたいと思っています。

さて、話を戻しましょう。というよりも、すでに、結論は出ています。懐が深いメシールのプレーをコピーする際に、決して、打点を遅らせてはいけないということです。打点を遅らせるのは、仕方がない場合、または意図的にそれを行う場合であって、基本は(普段は)、打点は前です。他のプレーヤーと同じです。

このことは、フォアハンド、バックハンド、どちらも同じです。実は、特に気を付けるべきは、バックハンドの場合です。メシールのテニスでは、フォアハンドはもちろん、バックハンドでも打点を後ろにおいてはいけません。正確に調べたわけではありませんが、メシールの両手バックハンドは、他の両手バックハンドと比較した場合でも、打点は前なのではないかと思います。(少なくとも、他のプレーヤーよりも後ろということはないはずです。)このことは、また、別の機会に書こうと思います。


⇒この記事の元記事はこちらです。
メシール | 投稿者 メシール 00:12 | コメント(0)| トラックバック(0)

感動をありがとう

オリンピックで日本選手が優勝した時などに、よく、「感動をありがとう」という言葉を聞きます。

正直に言うと、この言葉は、私にはかなり違和感がある言葉です。

でも、どうしてこんなに違和感を感じるのか…。考えても、よく分からないのです。

もちろん、コートの上で素晴らしいプレーを見ると感動します。しかし、そこにあるのは、私に見せるためのプレーではありません。(プレーヤーは、私のことは知らないのですから。)

そこにあるのは、プレーヤーの自己表現としてのプレーなのです。私との間にあるのは、選手から私への片方向のコミュニケーションです。私から選手への感動を伝える方向は、本来はないのです。(もちろん、最近のインターネットコミュニケーションでは、ファンから選手方向へのコミュニケーションも可能にはなりましたが。)

選手は自分のプレーに満足し、観客はそれに感動して満足します。それでよいのだと思っています。そこにあるのは、ありがとうと言う感謝の対象とはどこか違うように思うのです。

「李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦」において、私は、李娜が伝統という大きな見えない敵と戦っている様子を見守りました。優勝の瞬間には、感動という言葉がぴったりの感情に包まれました。

その時ですら、「李娜、感動をありがとう」とは思わなかったのです。

選手とファンの間にあるモノは、一体なんなのでしょうか?今回は、答えにたどり着けませんでした。もう少し、考えてみようと思います。
日記 | 投稿者 メシール 00:11 | コメント(0)| トラックバック(0)

脳内イメージが上達の秘訣

脳内イメージというのは、おそらく、正しい日本語ではないでしょう。でも私は、気にっている言葉です。テニス技術を説明するときに、便利な言葉だからです。

「自分自身のコーチになろう」で書きましたが、私は、アマチュアであっても、自分のプレーをビデオで撮影して後で確認する方法は、有効だと思っています。いえ、有効というだけではなく、アマチュアスポーツの楽しみ方として、理想的な方法だと思っています。

「今日は調子がよかった」「あのパッシングショット一発が気持ちよかった」というような、その日その場限りの楽しみ方では、技術はなかなか上達しません。映像で自分のプレーを詳細に分析し、一歩一歩上達していくには、自分が自分のコーチになるのが一番です。上達のスピードに制約のないのは、アマチュアのだいご味です。

ところで、ビデオで自分のフォームを撮影してみて驚くは、自分の中のイメージと実際の自分が違っていることです。(想像しているより太っていたとか、そういう意味ではありません(笑)。)

たとえば、私の場合、ストロークで、自分ではラケット面を地面に垂直になるように振っているつもりなのですが、映像で見ると、面がやや上を向いている場合がありました。別項でも書きますが、フォアハンドで右脇(私は右利きです)が意外に開いていて驚いたこともあります。

ビデオは、実際のコーチと違い、その場でアドバイスをしてくれません。自宅に帰って、映像を見て、自分の中のイメージと比較します。私の場合、オンコートでの自分の頭の中のイメージ(脳内イメージ)と実際の映像の中のプレーが、往々にして一致しません。一致しない方が多いぐらいです。

そして、その差分を頭の中で修正して、また、次のコート上でそれを試みるわけです。

時間がかかりますが、ゆっくり、ゆっくりと、自分のペースで自分のフォームやプレースタイルを作っていく。これが、私のやり方です。

(この方法を取り始めて、もう、2年がたちました。2年前のビデオを見ると、今とは全然違うフォームで打っています。変化はゆっくりですが、それなりに、効果があるということですね。)

脳内イメージは、大切です。それだけが、フォームを作り上げる手段です。

たとえば、「ラケット面が上を向く」という癖を修正したい場合。「面が上に向かないようにする」というのは、案外、難しいものです。ラケットは常に動きますし、面の向きも、自由度がありますから、この方向という風に固定することは容易ではありません。

そこで、脳内イメージを作ります。たとえば、「ラケットのヘッドを常にネット方向に向ける」というようなイメージです。実際、ストローク中にずっとラケットヘッドがネット方向を向くことはありません。しかし、私の場合、このように意識することで、ラケット面が開かなくなりました。(これは、また、別項で説明します。)

ただし、このような脳内イメージは、個人によって異なります。私の脳内イメージ(たとえば、「ラケットヘッドをネット側に向ける」)が、他のプレーヤーにも有効であるとは限りません。(むしろ、おそらく、イメージは人によって全く異なるでしょう。)

したがって、脳内イメージについて具体的に書く場合は、同じイメージを他の人と共有できるかどうかに気を付けてなくてはなりません。また、誰かの書く脳内イメージを読む場合も、注意をして読んでいただきたいと思います。

よい脳内イメージは、誰もが同じイメージを想起できるような言葉で表されるものです。私は、あまり、得意ではないのですが…。


⇒この記事の元記事はこちらをご覧ください。
日記 | 投稿者 メシール 22:32 | コメント(0)| トラックバック(0)

自分自身のコーチになろう!

「プロとアマチュアの違い」において、アマチュアの利点、つまり、アマチュアはじっくり時間をかけて自分の技術を追求できることの利点を書きました。

アマチュアは、テニスで収入があるわけではありませんので、専属のコーチを雇うことはできません。自分の技術向上は、自分自身だけが頼みです。ならば、自分自身が自分のコーチになればよいとは思いませんか?自分が自分のコーチングをするのであれば、たっぷり時間があります。選手たる自分は、他人のアドバイスにはなかなか耳を向けない人であっても、自分がコーチであれば、コーチの言うことを素直に聞くでしょう(笑)。

さて、自分自身が自分のコーチになるためには、具体的には、何をすればよいか。

まずは、自分の目指すテニススタイルを明確にすることだと思います。もちろん、目指すテニスがない(自分に一番適したテニスを目指す)というがだめということではありません。しかし、折角、アマチュアなのです。勝ち負けに関係なく自分の好きなテニスを目指すことを許されるのがアマチュアです。この機会に、まずは、目指すテニススタイルを考えてみてはどうでしょうか?私がメシールにあこがれたように。

「人格はプレースタイルを超えることができない。」でも書きましたが、かつて、作家の村上龍氏はこんなことを書いています。「テニスプレーヤーの人格は、そのプレースタイルを超えることができない。」

自分のテニスが、自分を表現する手段になることは、なんと素晴らしいことだと思いませんか?テニスを自己表現として考えることができるのは、テニスという協議の素晴らしいところだと思います。プロフェッショナルは、意識しなくても、みんな自然にそうなるのでしょうが、アマチュアだって、テニスを通じて自己表現、自己実現を目指してもよいのです。

私の場合は、目指すテニスがはっきりしている(メシール)ので、この点で悩むことは全くありませんでした。

と言っても、かくいう私も、実は、メシールのあらゆるプレーをコピーしているわけではありません。フォアハンドとバックハンドストロークとフットワーク(ステップ)は完璧なコピーを目指していますが、一方で、ボレーやサーブについてはあまり参考にしたことがありません。特に、メシールのボレーは、あまり上手ではないというか、私には魅力的ではありませんので…。

さて、ここからが本番です。自分で目指すテニススタイル(プロのコピーでもよいですし、頭の中のイメージでもよいと思います)が決まったら、次は、自分のコーチをしましょう。

自分をコーチする際に便利なモノが、ビデオカメラです。いえ、ビデオカメラは、自己コーチングでは必須の道具と言えるかもしれません。自分のプレーは、自分で見ることができないからです。

最近のビデオカメラは、低価格で高解像度です。ビデオカメラを用意して、自分自身を撮影するのです。撮影した映像は、スローモーション再生もできますので、フォームやプレーを、時間をかけてじっくりと分析できます。私も、HD(ハイビジョン)タイプの小型のビデオカメラ(と三脚)を使っています。

自分でボールを打っていますので、いつうまく打てて、いつうまく打てなかったかは、自分自身でよく分かっているはずです。自分のプレーを何度も何度も繰り返し見ることで、どこをどう修正すればよいか、だんだん分かってくるはずです。

「テニスプレーヤーの人格は、そのプレーを超えることができない」というのは、比喩的表現ですが、テニスの本質を表していると思います。そして、人のキャラクターが人それぞれ多彩であるように、テニススタイルの選択肢も、他のスポーツと比較しても多彩です。スピン系を中心に戦う選手も、フラットドライブ系中心の選手もいます。バックハンドに至っては、両手で打っても、片手で打ってもよいのです。基本的なプレースタイルにこれだけのバラエティーがあるスポーツも珍しいのではないでしょうか。

このことは、言い換えると、それだけ選択肢の幅が広いわけで、その結果、プレースタイルが自分自身を反映しやすいスポーツでもあるわけです。攻めたい性格の方は攻撃的なプレースタイルを、守りたい性格の方は安定でミスの少ないスタイルを。そして、私のように、美しいテニスを求める人は美しいテニススタイルを…。

自分のプレーをビデオで穴が開くぐらいに何度も見て、同時に、自分が目指したいテニス(自分が表現したい自分)を何度も何度も考え抜くこと。あなたが(自分の)コーチ業をスタートするのであれば、まずは、そこから始めるのがよいと思います。


⇒この記事の元記事はこちらです。
日記 | 投稿者 メシール 02:28 | コメント(0)| トラックバック(0)

プロとアマチュアの違い(アマチュアの楽しさ)

プロフェッショナルとアマチュアの違いとは何でしょうか。

高い技術を持つのがプロで、そのレベルにまで達しないのがアマチュア。テニスで飯が食えるのがプロで、別に職業がなくてはテニスだけでは食えないのがアマチュア。

それらは、もちろん、間違いではありません。ただ、私は、それだけだとは思っていません。

では、プロとアマチュアの違いとは、いったい何なのでしょうか?本稿では、この違いについて考えたいと思います。

私が考えるプロフェッショナルの定義は、調子がよくなくても、技術が未完成であっても、試合において「形を整える」のがプロだということです。プロである以上、どんな理由があろうとも、みっともない試合を見せることだけは許されません。

これは、テニスだけの話ではありません。私の仕事でも同じです。どんなに調子が悪くても、一定以上の成果・業績・結果を必ず出すのがプロフェッショナルというものです。

プロの評価は、勝敗というたった一つの基準でなされます。これも、どのようなプロの世界でも共通しています。高い技術を持っていても、試合に勝てなければ、その技術は評価されません。どんなに努力していても、負ければ評価されないのがプロです。

逆に言うと、技術力がなくても勝てるのであれば、それは高い評価がされます。別の角度から見ると、プロの技術は、勝てるかどうかという「ものさし」(だけ)で評価されるのです。

プロは、したがって、勝つことができるという技術を、高度な、言い換えると正しい技術よりも優先します。ここが肝心なところです。勝つことができる技術は、美しい技術に優先します。「勝つテニス」が必ずしも「美しいテニス」と一致するとは限らないのです。

かつて、スウェーデンにケント・カールソンという、クレーコートのスペシャリストがいました。カールソンのテニスは、とにかくミスをせずにループボールで、延々とグランドストロークを打ち続けるというものでした。

カールソンはある程度の成績を残したのですが、正直なところ、それは、到底、美しいテニスと呼べるものではありませんでした。それでも、カールソンのテニスは、プロとしては正しいのです。勝つことが、何よりも優先するのがプロなのですから。

アマチュアは、その必要がありません。じっくり、自分のペースで時間をかけて、自分が納得するまで、じっくりと技術に取り組むことができるのがアマチュアです。アマチュアには、いつまでにどこまで完成させなくてはならないというデッドラインがありません。美しさを、勝利よりも優先できるのも、アマチュアの特権です。そのことを、堂々と宣言しても、アマチュアの場合は、誰にも非難されません。アマチュアなのですから。

アマチュアは、幸せです。

私は、46歳になって、約20年ぶりにテニスを再開しました。20代の中ごろまでは、それなりの熱意をもってテニスに取り組みました。しかし、この20年間、本業の仕事を充実させるために、年に数回しかテニスラケットを持つことができませんでした。テニスを再開してからは、週末プレーヤーですが、後述するように、それなり熱意をもってテニスに取り組んでいます。

今、この年齢になって、もう、若いころのような体力も、瞬発力もありません。当時のギラギラとした情熱すら、今はもうないと思います。しかし、不思議なことに、私の技術は、いまだに向上しています。そして、おそらく、若いときより今のほうが、テニスの技術は上だと思います。

それは、おそらく、今の私は、当時よりも自分が納得する技術を追求しているからだと考えています。今は、目の前の試合の勝ち負けではなく、自分の技術を向上させることに集中し、一歩一歩、前進しているからです。

実は、私は、46歳でテニスを再開する際に、2~3年計画で技術を定着させることにしました。メシールのビデオと自分のビデオを何度も何度も見直して、試行錯誤し、自分なりの技術を追求してきました。その間、ほとんど対外試合に出ることをしませんでした。練習試合でも、勝ったり負けたりを繰り返しながら、しかし、目先の勝利ではなく、しっかりとした技術理論を自分の中で確立し、さらにそれを身につけることだけを目標としてきました。

こんなに時間をかけて、何年もの時間をかけて、自分の技術だけを追求できるのは、それは私がアマチュアだからです。プロは、協調性をして、明日の仕事(=試合)で結果を出さねばならないからです。

アマチュアであることを大いに楽しむこと。これこそが、アマチュアの醍醐味だと思います。

⇒この記事の元記事はこちらです。
日記 | 投稿者 メシール 00:56 | コメント(0)| トラックバック(0)

フェデラーがNo.1に復帰するためには (Winning Ugly?)

少し前に、美しいテニスは機能的なテニスという記事を書きました。美しいテニスは、機能的であるだけではなく、強いテニスでもあるというのが、今回のお話です。

ご存知かもしれませんが、メシールと同時代を戦ったアメリカ人選手の一人であるブラッド・ギルバードの著書に"Winning Ugly"があります。和訳すると、「かっこ悪くても勝つ!」でしょうか。日本の出版社は、直訳では日本では売れないと判断したのでしょう。日本語版では「読めばテニスが強くなる」という、当たり障りのない(?)タイトルになっています。

ニューヨークのテニス仲間さん(Tennisunakama in New Yorkさん)が、このWinning Uglyについて、面白い文章を書いておられます。

美しいテニスと、勝つためのテニス。フェデラーはトップから陥落したことで、美しいテニスの呪縛から放たれて、勝つためのテニスに向かうことができるか、という内容です。とても面白い視点です。

フェデラーのテニスもメシールのテニスも、美しいテニスです。そして、二人とも、私の好きなテニスプレーヤーです。

当然ですが、二人は、美しいテニスを目指してテニススタイルを築き上げたとは思えません。勝つために選んだテニスのスタイルが、結果として美しいテニスだったのです。

私は、ずっと、美しいテニスこそが強いテニスであると信じてきました。いえ、今でもそう信じています。なぜなら、美しいテニスには無駄がないからです。無駄がないテニスとは、言い換えると、より高い身体能力を引き出すテニスです。つまり、美しいテニスは、勝つためのテニスなのです。

(私には)あまり美しいとは思えないテニスプレーヤーの筆頭がナダルです。ナダルは、その驚異的な自身の身体能力で、強引とも思えるフォームから恐ろしいほどのボールを打ちます。そのナダルは、フェデラーから再度、No.1の座を奪い返しました。(今は、さらに、ジョコビッチがNo.1ですが。ジョコビッチのテニスについては、また、別項で書きたいと思います。)

私は、1位から陥落した(今や3位に後退しました)フェデラーの進むべき道は、ニューヨークのテニス仲間さんが書いておられるようなWinning Uglyではないと信じています。

フェデラーには、美しいテニスを極めることでNo.1に返り咲いてほしいのです。

ナダルのプレースタイルは、身体能力を現在以上に引き上げることは、難しいと思います。あのテニスで、これ以上身体に負担をかけると、本当に体を壊してしまうでしょう。

年齢的に考えてもナダルほどには身体能力を有さないフェデラーがNo.1に返り咲くためには、身体能力のポテンシャルを100%引き出さねばなりません。今までが、99%だとしたら、さらに残りの1%を引き出すのです。

200の身体能力を50%発揮するナダルと、100の身体能力を100%発揮するフェデラー。

この縮図の中で、フェデラーは再起を目指すべきだと思います。「99%を100%に。」これが、私が考える、フェデラーの復活の道筋です。

フェデラーがNo.1に復帰できた時、それは、おそらく、究極の美しいテニスがそこにあるに違いありません。

⇒このブログの元記事はこちらです。
メシール | 投稿者 メシール 00:43 | コメント(0)| トラックバック(0)

「人格はプレースタイルを超えることができない。」

文章を書くことを生業(なりわい)とする人は、どうしてこんなに言葉をうまく使うのだろうと思うことがあります。

村上龍氏の、次の一言は、私が、テニスというスポーツを愛し、自分でもプレーを楽しむ理由を、たった一言で言い尽くしてしまっています。

「人格はプレースタイルを超えることができない。」

ぜひ、この言葉を、この記事を読まれた方にも、味わっていただきたいのです。

多くのスポーツがそうであるように、テニスのプレーにも、その人のキャラクターが表れるものです。積極的なタイプはネットに出ますし、安定指向の場合はベースラインで粘るプレースタイルになるでしょう。

普段は安定志向の人が、案外と攻撃的だったりすることがあるかもしれません。

その人の人格は、その人のプレースタイルを超えることができない。つまり、その人の人格のすべては、その人のテニスを見ていればわかるというのです。テニスのプレースタイルは、それほどまでに、人の性格やキャラクターを反映しているということです。

メシールのプレースタイルは、メシールの人格そのものです。メシールのコート上でのマナーは、メシールの人柄であり、大げさではなく生き様なのです。私がメシールのプレーをコピーしたいという気持ちは、つまりはそういうことなのです。

レベルの高いプレーヤーほど、つまりプロプレーヤーほど、プレーを見ればその人の人格がそこに浮かび上がって見えてくるものです。
日記 | 投稿者 メシール 00:27 | コメント(0)| トラックバック(0)

テニスのトレンド~メシールのテニスは古いのか?

1987年の全米オープンでメシール対ヴィランデル戦(準々決勝)のゲスト解説者は、(今は亡き)アーサー・アッシュ氏でした。アッシュ氏は、まだ、それほど、有名ではなかったメシールについて、インタビュアーに「この選手をどう思いますか」と質問されたときに、こんな風に答えています。「彼のプレーを見ていると、どこのテニスクラブにもいるカジュアルプレーヤーのようだ。」

カジュアルプレーヤーのようだというコメントを、私は、ほかのメシールのビデオでも聞いたことがあります。メシール自身も、昔のインタビューで、「自分のプレースタイルは、(レベルの高い)クラブプレーヤーだった父親の影響を受けています」と答えていたことがあります。

当時ですらカジュアルプレーヤーのようだと言われていたわけですから、現代テニスから見ると、メシールのプレースタイルはオールドスタイル中のオールドスタイルと言ってもよいでしょう。

テニス365の技術特集・フォアハンド編を見てみると、メシールのテニスが、現代テニスとはかなり違うことが変わります。現代テニスとは、全く正反対である技術も、多々あるようです。例えば、「ラケットは下から上ではなく体の回転を使った横方向のスイングが望ましい」とか、「テイクバックではラケットを立てる」などは、メシールのテニスとは正反対です。

テニスの道具(特にラケット)の進化により、この20年で、テニスの技術は明らかに変わりました。おそらく、プロの世界、特に男子のトッププロの世界では、メシールのテニスは、もはやトレンドにはならないのかもしれません。しかし、それでも、メシールのテニスの美しさは、私は消えることはないように思います。今のテニスが、「力強さ」を優先するあまり、かつての「美しさ」を失ってしまった今、私は、メシールの美しいテニスを、アマチュアの世界の中で残したいと思っています。

メシールのテニスは、力強さ(パワー)よりも、正確さを優先するテニスです。特に、薄いグリップでボールを運ぶようにゆっくりとスイングするフォアハンドは、厚いグリップで高速にラケットを振ることでボールを強く打つ(たたく)現代のテニスと比べると、実は制約の多いフォームです。そのため、(別項でも述べますが)実際にテニスコートでメシールのテニスを実現すると、パワーがないために「打ち負ける」「球が浅くなる」などということが多くなりがちです。

しかし、考えてみると、パワーのあるラケットが増えている現代、昔のパワーレスなウッドラケットや薄いラケットと比べると、現代のラケットは、メシールのフォームではパワーが出ないという弊害に陥りにくい環境にあるはずです。(そう考えると、パワーのでないウッドラケットを最後まで手放さなかったメシールは、不思議な選手です。)

もうひとつ、メシールのテニスに必要なのは、ラケットの重さです。メシールのストロークでは、ラケットの重さが果たす役割は大きいのです。これについては、現代のラケットが軽くなっているおかげで、実現は容易です。重いラケットを軽くすることはできませんが、軽いラケットを重くするのは難しくありません。Uリードテープをべたべた貼ればよいのですから。)したがって、ラケットの重さについては、現代テニスであっても問題にはなりません。

技術的には古くなったメシールのテニスを、アマチュアが実現する環境は、かつてよりも整ってきているのかもしれません。
メシール | 投稿者 メシール 00:02 | コメント(0)| トラックバック(0)

真にマナーの良いプレーヤーは誰か?

私は、20年近く、つまりメシールが引退してから最近まで、ほとんどテニスの試合を見ていませんでした。スタジアムに出向くことはもちろん、テレビで観戦することもありませんでした。仕事が忙しくて、テニスから遠ざかっていた20年間でした。

2年ほど前から再びラケットを握るようになり、それが理由でしょうか、今年(2011年)に入ってからは、時々、テレビ観戦するようになりました。今年の全仏オープンでは、李娜(Na Li)という選手の決勝戦を見たくて、WOWOWにも加入しました。

私がテニス観戦を再開して一番驚いたのは、コートによってはチャレンジというシステムが導入されていたことです。このシステムはあまりにもマンガ的で、初めて見た時には、正直なところ笑ってしまいました。「人間の判定に不満があるときは、機械(センサー)に再判定してもらうなんて…」という感じです。

笑ってしまったのは、後述しますが、スポーツにおけるジャッジというものを、このシステムは根底から無視しているからというのも理由です。こんなシステムが導入されては、プレーヤーはジャッジに苦情を言うことはできなくなりますね。確かに。

余談ですが、このシステムが、RICOH(リコー社)という日本企業が作ったシステムであることにも、別の意味で感心しました。「ああ、テニスコート上で日本が真価を発揮するのは、選手よりも企業なのか…」と。セイコーの時計やダンロップのボール、本当にテニスコートには、日本製品がいろいろなところで活躍しています。

さて、久しぶりにプロのテニスの試合を見て驚いたのは、プレーヤーたちのマナーの良さです。私がかつて見たプレーヤーたち、マッケンロー、コナーズ、レンドル…と比べて、フェデラーナダル、ジョコビッチ…たちの、マナーの良いこと。

これは、どうも、チャレンジシステムのおかげだけではなさそうです。

かなりの想像で書きますが、このことは、いろいろなことを示唆しているように思います。たとえば、私が(マナーがよろしくない)たとえで書いた3人は、3人ともアメリカ人(マッケンロー、コナーズ)であるか、またはアメリカに事実上移住した選手(レンドル)です。一方、現在の3名は、3人ともヨーロッパ人です。

アメリカでは、プロスポーツは興業です。エンターテイメントです。表現がよくないのを承知で書くと、アメリカではプロスポーツは観客を喜ばせ、興奮させるための商品です。

一方で、ヨーロッパでは、スポーツに違う香りがします。李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦で書いたように、伝統あるテニススタジアムの空気はヨーロッパの文化の中に溶け込んでいるように思えます。

私がテニスを見なかった20年間で、テニスは、やっと、興業から伝統的スポーツに昇華したのかもしれません。(その中で、チャレンジシステムが果たした役割はさして大きくないと思いますが…。)

ちょうど私がメシールのテニスを見ていたころの選手の一人に、アメリカのブラッド・ギルバードという選手がいます。メシールがオリンピックの決勝戦で戦っているときに、エドバーグと一緒にその決勝戦の会場にいたギルバードの姿をよく覚えています。ギルバートは準決勝で同じアメリカのメイヨットに敗れて、表彰式のために決勝戦を観戦していた(させられていた?)のです。

このギルバートに、Winning Ugly(格好悪くても勝つ)という著書があります。この著書の中で、当時の興業ベースのプロテニスツアーの当時の姿が描かれています。興業のために、強いマッケンロー、強いコナーズが陽に陰に特別扱いされていた様子が。

さて、そんな当時の男子プロテニス界にも、マナーがよい選手は大勢いました。チェコスロバキア(今はスロバキア)のプロテニス選手であるメシール(メチージュ)は、その中でもひときわマナーがよい選手でした。

さて、ここからがこの稿の本題です。ここでは、メシールのプレーマナーを思い出しながら、プロスポーツの試合でマナーがよいということは、何を意味するのかについて考えてみたいと思います。

私は、メシールの(当時の)試合のDVDをいろいろな形で手に入れて、今、20~30試合程度持っています。こんなにたくさんメシールのDVDを持っている人は、日本では他にあまりいないのではないでしょうか?私の貴重なコレクションです。(ちょっと自慢です(笑)。)

もちろん、すべての試合を、目を皿のよう何度も見ました。1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦などは、もう、何度見たことがわかりません。別項で書きますが、この試合は、私が見たすべてのテニスの試合でベストマッチです。

メシールのプレーを見て、特筆すべきことの一つが、そのプレーマナーです。プロの男子テニス選手で、当時、ここまで審判にクレームをつけることがない選手を、私は他に知りません。負けそうな試合ですら、ジャッジに文句も言わずに淡々とプレーするので、逆に「メシールはやる気があるのか」と思うことがあるぐらいです。どうしてもクレームをつける時には、アウトした場所にボールを置いて審判を見ずにそっぽに歩いていったり、観客席に座って他のお客さんと一緒に「アウトじゃないか」というそぶりをしたり、ユーモアいっぱいで殺伐とした雰囲気にならないやり方でした。

当時(1980年代後半)のテニスプレーヤーでマナーがよい選手としては、例えばヴィランデルがいます。ヴィランデルも、本当にマナーの良いプレーヤーでした。そのヴィランデルですら、それでも、時々審判に文句を言っているのを見ました。

メシールがはっきりと態度でクレームをつけたのは、私のコレクションの中では、ただ一度だけです。それは、1987年のKey Biscayne(アメリカ)でのリプトン国際の決勝戦です。決勝戦の相手は、メシールが苦手としているレンドル。この試合、メシールは珍しくエキサイトしており、試合中、一度、線審に大きな身振りで激しく抗議をしました。レンドルのストロークがベースラインをアウトしていたにも関わらず線審に「イン」と判断されたからです。

メシールがこんなに激しく抗議をするのを見たのは、後にも先にも、この一度だけです。と言っても、そのただ一度ですら、(判定は覆らないのですから)あっさりと引き下がったのですが。(わめきまわり、暴れまわるマッケンローとは大違い。)

なお、皮肉なことに、メシールが公式戦でレンドルに勝利したのは、メシールのキャリアの中で、この一度だけでした。趣味がつりだと言うメシールが、試合後のインタビューで「でっかい魚を釣り上げた」とコメントしたのは有名です。

メシールの、抗議とは全く正反対のシーンを見たことがあります。上に書いた、1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦です。この試合のあるポイントで、エドバーグのファーストサーブがコーナーいっぱいにきれいに決まった時に、線審が「アウト!」とコールしたのです。え?と、驚くエドバーグ。しかし、メシールは、審判に対して何も言わず、当たり前のように「すたすた」と次のレシーブポジションに歩いて行ったのです。

会場がややどよめく中で、エドベリが日本流のスタイルでメシールに向かってお礼のお辞儀をした姿も印象的でした。その後、メシールもエドベリも、何事もなかったようにプレーを続けたのです。

この試合では、マッチポイントでメシールのボレーがネットした後の、メシールの態度が素敵でした。勝利してバンザイをしながらコート後ろの壁に倒れこむエドバーグ。そのエドバーグに向かって、メシールはネットをジャンプして勝者のコートに入っていったのです。勝者をたたえる握手をするために。

セットカウント2-0から2-3で逆転負けしたメシールが、悔しくなかったはずはありません。戦いを終えた二人の選手が、ネットを挟まずに肩を並べて審判席に向かって歩む姿は、今でも私の瞼の裏にはっきりと残っています。

朝日新聞の西村欣也氏は、私の好きなコラムニストの一人です。氏は自分のコラムの中で、しばしばスポーツにおけるジャッジ(判定)について同じことを述べています。「スポーツで審判に文句を言うのは間違えている。なぜなら、“最初から審判は間違えるモノ”だからだ」と。

私も、その意見に賛成です。人間が審判をする以上、間違いは避けることができません。スポーツの試合は、特に対戦型のスポーツは、それを前提としているのです。それが、ルールの中で戦うすべてのスポーツ競技の基本です。

しかし、プロフェッショナルではない、私程度のアマチュアプレーヤーでも、ミスジャッジはつらいものです。文句を言いたくなります。ジャッジに文句を言ったことも、何度もあります。わかっていても、明らかなアウトボールをインとジャッジされると、頭に来ることもあります。それをきっかけにメンタルからガタガタと崩れてしまうこともあります。それが、まあ、普通の(平凡な)人間でしょう。

そう考えると、トッププロでいながら、淡々とプレーするメシールの姿は、プロのスポーツプレーヤーとして、どこか、一段高いところにいるような気がしてならないのです。

当時、メシールと究極の反対の態度を取っていたのが、ご存知、米国のジョン・マッケンローでした。マッケンローは暴言を吐き散らしながら観客の拍手喝さいを浴び、そして、多くのメジャータイトルを取りました。

そのマッケンローは、いまだに世界中のテニスファンの記憶に残っています。一方、メシールはほとんど知られることなく、人々の記憶に残ることなく、短い選手生活を終えました。今、日本でメシールという選手を覚えている人は、熱心なテニスファンでもほんの一握りでしょう。

暴言を吐いてでも、ラインコールや審判に苦情を言い続けても、メジャー大会に勝つことが一番大切なのであれば、プロテニスプレーヤーというのは、なんとさびしくてむなしい職業なのでしょうか。グランドスラムで勝つごとができなかったメシールは、やはり、マッケンローには劣るのでしょうか。

私は、是非、知ってほしいのです。メシールは、もしかしたら、多くの人の記憶に残るプレーヤーではないかもしれない。メシールがテニスの世界に残したものは、マッケンローと比べて多くないのかかもしれない。でも、極東の小さな島国に、たった一人だけれども、そのプレーする姿をまぶたに焼き付け、20年以上もあこがれ続けている日本人がいることを。そのプレーは、コート上での振る舞いは、私に、テニスだけではなく、もっと大きなものとして、心の中に、今も変わらず、どっしりと残っていることを。

⇒この記事の初稿はこちらです。
メシール | 投稿者 メシール 23:31 | コメント(0)| トラックバック(0)

プロスポーツ選手に聞いてみたいこと(改訂版)

私の仕事は、ちょっと変わった公務員のような仕事なので、民間の会社員ではないのですが、まあ、広い意味ではサラリーマンです。週末だけテニスを楽しむアマチュアテニスプレーヤーです。だから、というのが正しいのかわかりませんが、普段、プロスポーツ選手と話をする機会はありません。また、有名選手だからと言う理由で、会ってみたいとか、話をしたいとか思うことも、全くありません。

それが別に不満でも、困っているわけでもありません。ただ、いろいろな試合を見たり、また、いろいろな活動を見たりすると、時々、選手に直接聞いてみたいなぁと思うことがあります。

最近でいうと、プロ野球・日本ハムファイターズの二塁手の田中賢介選手。顔はちょっといかつい(すみません!)けれど、でも優しそうな雰囲気の日ハム選手会長です。

さて、最近、田中選手がアウトにした数だけ乳がん検診のためのマンモグラフィー検診をプレゼントするという日本生命のCMが、テレビでよく流れています。BGMもとても良い曲です。ゆずというデュオの「虹」という楽曲のようですね。私は、日常生活(車の運転を含めて)で音楽を聴くという習慣がないのですが、それでも「ゆず」というハーモニーの美しいデュオがいることは、知っています。

このCMは、とても感じのよいCMです。理由はよくわからないのですが、私はこのCMがとても好きです。おそらく、映像から田中選手の誠実さが伝わってくるからだと思います。プロスポーツ選手のボランティア活動をましてやCMで映像にすることは、有名人のボランティア行為の押し売りや売名行為だととらえられてしまうこともよくあります。にもかかわらず、思い切ってCMの企画を受け入れた田中選手の勇気に、素直に感銘しています。

その中で、「恵まれない子どもに」というような抽象的なものではなく、具体的な「乳がん検診の支援」ということをプロ野球選手である田中選手がなぜ選んだのかを、私は知りたいのです。知らなくてはならないことではないのですが、自分の中で、なぜ、自分がこのCMに感銘するのかを理解したいという気持ちと、どこかでつながっています。

上の日本生命のサイトでは、田中選手自身のカラーがピンクなので、同じピンクリボン活動に共感してこの活動を始めたのです…というようなことが書いてありますが、それだけの理由なのでしょうかね?やはり、もう少し、詳しいことが聞いてみたいです。

「書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(中) ナンバーワンになるということ」でも少し書きましたが、私は、プロのスポーツ選手については、そのプレーを理解すればよいと思っています。プライバシーは選手自身のものです。我々ファンがが知る必要はないものだと思っています。

ただ、今回の田中賢介選手のCMのように、メディアを通じて入ってくる事柄について、その背景や理由を知りたくなることがあります。今回で言うと、田中選手に直接、聞いてみたいなぁと思うわけです。

プレーそのものについてであることも、今回のようなプレー以外のことについて知りたい場合もあります。いずれにしても、芸術作品に感銘した時にその理由や背景について理解したくなるように、スポーツでもその理由を知りたくなることがあります。

最近は、ブログや電子メール、ツイッターなどがありますので、選手に直接質問してみる機会はかつてよりは多くなりました。たとえば、メールを送ったら、直接、返事をもらえることもあるでしょう。最近では、ラファエル・ナダル(http://yfrog.com/user/RafaelNadal/profile)がツイッターを始めて、あっという間にフォローアが20万人を超えたようです。

ただ、あまり、現役のプロスポーツ選手には、直接のコミュニケーションは取りたくないというのが正直な気持ちで。現役選手は、今、プレーヤーとして最高のパフォーマンスを見せることが第一目標であり、その準備(トレーニング)と試合、その後のメンテナンスで、すでにいっぱいいっぱいのはずです。それに対して、さらに、ファンとのコミュニケーション…。それよりも、むしろ、少しでも良いプレーを見せてくれることが、私には、一番魅力的です。

そう思うと、相手に負担をかける行為はできるだけしたくないというのが正直な気持ちです。もしかしたら、現役引退後に、プレーヤーにいろいろと質問したり、コミュニケーションしたりする場があるとよいかもしれませんね。

元記事はこちらをご覧ください。
日記 | 投稿者 メシール 00:50 | コメント(0)| トラックバック(0)

美しいテニスは機能的なテニス

このブログは、チェコスロバキア(現スロバキア)の往年の名選手であるミロスラフ・メシール(メチールまたはメチージュ)について、自由に書くためのブログです。

メシールは、1980年代の後半に活躍した右利きプレーヤーです。シングルスの最高ランキングは第4位でしたので、それほど有名な選手ではなかったかもしれません。今は、メシールのことを覚えているテニスファンは少ないでしょう。

1990年のウィンブルドンで引退するまで、全豪オープンと全米オープンで決勝戦、ウィンブルドンと全仏オープンで準決勝戦まで進んだことがありますが、グランドスラムではシングルス・ダブルス、ともに優勝はありません。

その代わりに、メシールにはオリンピックでのシングルス優勝という輝かしい記録が残っています。これが、メシールのキャリアで最高の成績と言ってよいでしょう。

そんなメシールですので、今、その試合を見る機会はあまりありません。Youtubeにはいくつか、当時の試合の映像があります。興味がある方は、ぜひ、一度、見ていただきたいと思います。

現代テニスから見れば、メシールのテニスは、オールドスタイルに見えると思います。いや、当時ですら、メシールのテニスはクラシックだと言われていました。

さて、なぜ、私が、メシールのことを好きなのか。それは、「美しいと思うから」です。メシールのプレーは、美しい。だから、私は、メシールのプレーが好きです。

かつて、作家の村上龍氏がこんなことを書いていました。資料が手元にないので、思い出しながら書いてみます。

村上龍氏が、ソルボンヌ大学哲学科の女子学生を連れて、全仏オープンの観戦に行った時のことです。村上龍氏によると「フランスのインテリは、スポーツなど見ない」そうなのですが、彼女も、テニスを観戦するの初めてで、テニスを全然知らなかったとか。もちろん、テニスの選手のこともなにも知らない。その彼女が、メシールのプレーを見ていったそうです。

「きれいね」と。

別項で書こうと思いますが、美しいということは、スポーツの世界では、機能的であるということでもあります。勝敗を追求するスポーツの世界において、強い選手に美しいプレースタイルが多いのは、理由があるのです。

このブログでは、そんなことも考えてみたいと思います。
メシール | 投稿者 メシール 00:05 | コメント(0)| トラックバック(0)

李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦

2011年の全仏オープン決勝をテレビ観戦しながら2011年6月4日に書いた記事です。私が、ブログでテニスの試合の印象などを書くきっかけになった記事です。

テニス365のブログサイトにも転載します。

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今、全仏オープン2011女子決勝の試合を見ています。実は、この文章は、リアルタイムで、つまりWOWOWで試合を見ながら書いています。

WOWOWには、試合前に、急いで加入しました。李娜(Na Li)という、中国人(アジア人)が初めてグランドスラムで優勝するかもしれない決勝戦を見たかったからです。インドなど、伝統的にテニスの強い国がアジアにはありますが、グランドスラムでの優勝は、今までありませんでした。

Na Liが、グランドスラム決勝という場で、どんな戦いを見せてくれるのか。実は、Na Liの試合を見るのは初めてなのです。

第1セットでは、Na Liのクラシカルなテニススタイルが、スキアボーネの眩惑的で多彩なテニスを凌駕しました。Na Liは、惑わされず、しっかりと、正攻法で戦っています。そして、第1セットは、サービスブレークをされる心配がほとんどないまま、セットを取りました。

第2セットも4-2とリードしたNa Liは、しかし、ここから、プレッシャーと戦い始めます。Na Liは、第2セット4-2から、スキアボーネのサービスでブレークチャンスをモノにできず、自分のミスでこのゲームを落とします。そして、その後もフォアハンドのミスを重ね、スキアボーネにじりじりと追いつかれていきます。

解説の神尾米さんが、これがグランドスラム優勝のプレッシャーだと説明しています。もちろん、グランドスラム初優勝のプレッシャーは計り知れないものでしょう。しかし、私の目には、それだけではないように映ります。もっと大きなものがNa Liを苦しめている。Na Liはネットの向こうのスキアボーネではなく、もっと別の、何か大きなものと戦っているように、私には見えたのです。

この試合は、アジア人がグランドスラム決勝で戦い、初のグランドスラマーになるかが話題の焦点でした。でも、果たして、それだけなのでしょうか。

この決勝戦の意味は、もっと大きいように思います。アジア人が、欧米が100年以上も中心であったたテニスというスポーツの、しかもその中心となるグラウンドスラム大会の決勝で、観客を含めた歴史と伝統という重みと戦い、その重圧を乗り越えることができるかどうかを試される一戦なのです。

第2セット後半に入り、スキアボーネがNa Liに追いつき始めてからは、大半の観客がスキアボーネの応援です。第2セット後半に入り、スキアポーネがポイントを取るたびに、大歓声が起こります。

パリっ子は、その歴史的背景から伝統的に判官びいきで、優勝経験のないNa Liへの応援が、前年度の優勝者であるスキアボーネをこえていると、試合前にレポートされていました。それが、手のひらを返したように、スタジアム全体でヨーロッパ人であるスキアボーネを後押ししている。残酷なヨーロッパの歴史が、観客すべてとスキアボーネを飲み込んで、Na Liに襲い掛かります。

第2セット後半に入り、ミスを繰り返すNa Liの苦悩の表情は、思い通りのプレーができないことに対する怒りだけなのでしょうか?

多くのプロスポーツは、別の側面から見ると、貧しい人たちが一獲千金を夢見て、這い上がる、のし上がる手段の一つです。ボクシングや野球で黒人選手が多いのは、偶然ではありません。裕福になりたいという野心が力になるメジャースポーツの中で、しかし、テニスは少し違います。かつてより貴族のものであったテニスというスポーツ。その伝統は、脈々と世界のテニスシーンの背景に流れています。全仏オープンの観客は、貧しさから這い上がるサクセスストーリーを求めて、ローランギャロスに集まるわけではない。ボクシングの世界チャンピオン戦のリングとは異なる空気が、グランドスラムのセンターコートを支配しています。

テニスは、もういいや、負けてもいいやと思ったら、こんなに楽なスポーツはありません。偶然に勝つということがないスポーツです。負けようと思って、たまたま勝ってしまったということがないスポーツです。Na Liが、観客という形で具現化された欧州の歴史の重みの中で、精神的に追い込まれ、瞬間的にそんな表情を見せるのが心配です。

Na Liには、優勝してほしい。でもそれは、自分がアジア人だから、アジア人に初めてグランドスラムで優勝してほしいということではないのです。

成長期に入ったアジアは、悲しい歴史を少しずつ乗り越え、企業の力や団体の力で、世界の中で成功した事例を持ちはじめてきました。しかし、テニスは、団体で戦う競技ではない。どれほど、中国が組織的に選手を育成したとしても、団体競技ではないのです。

テニスは、どんなに精神的に追い詰められても、コートの上でただ一人、数時間戦い抜く者が勝利を勝ち取る競技です。その間、コーチとも、友人とも、家族とも苦しみを分かち合えない、孤独で過酷なスポーツです。

今、Na Liは、スキアボーネではなく、欧米の伝統と、それに押しつぶされそうになる自分自身と戦っている。Na Liが、ヨーロッパのスタジアムというアウェーだけではなく、テニス競技そのものとその背景にあるヨーロッパの歴史に対するアウェーを感じているとしても、それは少しも大げさなことではないのです。

個人競技であるテニスにおいて、あらゆる伝統の重さを跳ね返し、欧米の文化の中心で異文化人であるアジア人が光を放つ瞬間が、今、目の前に来ようとしている。しかも、パリという、ヨーロッパの文化と歴史の象徴の街で。

私は、その瞬間を見たい。Na Liには勝ってほしい。

この気持ちを持つことができるのは、私がアジア人だからです。Na Liの感じる重圧を理解し、分かち合いながら応援をすることの意味が、そこにはある。そんな時間を持つことを、私は幸せに感じます。

今、コート上は、第2セット5-5です。Na Liは、明らかにグランドストロークで、ラケットを大きく振りきることができなくなっています。フラット系のグランドストロークでは、ラケットを振りきれなくなることは、何よりも怖いことです。ボールを制御することができなくなるからです。

どんな形でも良い。第1セットのような、ストロークでクロス、逆クロスにエースを取るようなきれいな形でなくてもよい。格好良くない勝ち方であっても、Na Liに勝ってほしい。背中にのしかかる巨大な伝統の重さを乗り越えることが、Na Liが、応援するすべてのアジア人が、なによりも望んでいることなのです。

第2セットの4-2からずっと腕が縮こまってしまってバックアウトとネットを繰り返していたNa Liが、5-6の0-15から、やや長いストローク戦で、グランドストロークのエースでポイントを取りました。何ゲームかぶりに、腕がしっかり伸びたフォアハンドストロークでした。そして、この瞬間に、Na Liの表情が、少し穏やかになったように見えました。もしかしたら、彼女自身がテニスという欧米の伝統の重圧から抜け出し、アジア人としてではなく一人の選手として、戦い始めた瞬間だったのかもしれません。

Na Liは、5-6から自分のサーブをキープしました。彼女の表情は、自分自身を含めたあらゆるものに対して怒りを感じながら、しかし、あらゆる怒りを受け入れた、不安のない表情になりました。Na Liが、テニスという伝統の中に飲み込まれ、テニス史上の一人のプレーヤーとしてプレーし始めています。今、Na Liは、アジア人ではありません。長い全仏オープンの歴史の中で、一番最後に並ぶ優勝に最も近いプレーヤーです。

今から第2セットのタイブレークです。Na Liの表情は、背負う多くのものから開放され、今はとても穏やかです。大丈夫です。Na Liは、このタイブレークを取ることができます。優勝できると思います。
試合観戦 | 投稿者 メシール 09:31 | コメント(0)| トラックバック(0)

<おススメ記事>グランドスラムが素晴らしい理由(わけ)

我々が、当たり前だと思っている「グランドスラムは素晴らしい」という事実。どうして素晴らしいのかについて、考えてみた記事(こちら)です。

私は気に入っているのですが、アクセス数があまり伸びないのです。どうしてかなぁ…?

元記事はこちらをご覧ください。
試合観戦 | 投稿者 メシール 01:17 | コメント(0)| トラックバック(0)

<おススメ記事>たった5歩のダンス

メシールのテニスについて、別ブログから引っ越し中です。

この機会に、記事を全部読み返して、整理してから書き直そうと考えています。

時間がかかりそうなので、これまで書いた記事の中で、特に、自分で気に入っている記事やアクセス数が多い記事を、ご紹介させていただこうと思います。

今回は、たった5歩のダンスです。

今日も、メシールのテニスをDVDで見ていましたが、やはり、ステップワークが素晴らしいです。私も、早くテニスのフォームを固めて、このステップワークをコピーするレベルに進みたいと、改めて思いました。

元記事はこちらをご覧ください:たった5歩のダンス
メシール | 投稿者 メシール 23:22 | コメント(0)| トラックバック(0)

メシールのテニス(こちらに引っ越し中!)

これまで、こちらに書き込みをしていたメシールのテニスですが、少しずつ、テニス365のブログサイトに引っ越しさせていただこうと思います。今後とも、よろしくお願いします。
日記 | 投稿者 メシール 22:01 | コメント(0)| トラックバック(0)