2011年08月03日
真にマナーの良いプレーヤーは誰か?
私は、20年近く、つまりメシールが引退してから最近まで、ほとんどテニスの試合を見ていませんでした。スタジアムに出向くことはもちろん、テレビで観戦することもありませんでした。仕事が忙しくて、テニスから遠ざかっていた20年間でした。
2年ほど前から再びラケットを握るようになり、それが理由でしょうか、今年(2011年)に入ってからは、時々、テレビ観戦するようになりました。今年の全仏オープンでは、李娜(Na Li)という選手の決勝戦を見たくて、WOWOWにも加入しました。
私がテニス観戦を再開して一番驚いたのは、コートによってはチャレンジというシステムが導入されていたことです。このシステムはあまりにもマンガ的で、初めて見た時には、正直なところ笑ってしまいました。「人間の判定に不満があるときは、機械(センサー)に再判定してもらうなんて…」という感じです。
笑ってしまったのは、後述しますが、スポーツにおけるジャッジというものを、このシステムは根底から無視しているからというのも理由です。こんなシステムが導入されては、プレーヤーはジャッジに苦情を言うことはできなくなりますね。確かに。
余談ですが、このシステムが、RICOH(リコー社)という日本企業が作ったシステムであることにも、別の意味で感心しました。「ああ、テニスコート上で日本が真価を発揮するのは、選手よりも企業なのか…」と。セイコーの時計やダンロップのボール、本当にテニスコートには、日本製品がいろいろなところで活躍しています。
さて、久しぶりにプロのテニスの試合を見て驚いたのは、プレーヤーたちのマナーの良さです。私がかつて見たプレーヤーたち、マッケンロー、コナーズ、レンドル…と比べて、フェデラー、ナダル、ジョコビッチ…たちの、マナーの良いこと。
これは、どうも、チャレンジシステムのおかげだけではなさそうです。
かなりの想像で書きますが、このことは、いろいろなことを示唆しているように思います。たとえば、私が(マナーがよろしくない)たとえで書いた3人は、3人ともアメリカ人(マッケンロー、コナーズ)であるか、またはアメリカに事実上移住した選手(レンドル)です。一方、現在の3名は、3人ともヨーロッパ人です。
アメリカでは、プロスポーツは興業です。エンターテイメントです。表現がよくないのを承知で書くと、アメリカではプロスポーツは観客を喜ばせ、興奮させるための商品です。
一方で、ヨーロッパでは、スポーツに違う香りがします。李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦で書いたように、伝統あるテニススタジアムの空気はヨーロッパの文化の中に溶け込んでいるように思えます。
私がテニスを見なかった20年間で、テニスは、やっと、興業から伝統的スポーツに昇華したのかもしれません。(その中で、チャレンジシステムが果たした役割はさして大きくないと思いますが…。)
ちょうど私がメシールのテニスを見ていたころの選手の一人に、アメリカのブラッド・ギルバードという選手がいます。メシールがオリンピックの決勝戦で戦っているときに、エドバーグと一緒にその決勝戦の会場にいたギルバードの姿をよく覚えています。ギルバートは準決勝で同じアメリカのメイヨットに敗れて、表彰式のために決勝戦を観戦していた(させられていた?)のです。
このギルバートに、Winning Ugly(格好悪くても勝つ)という著書があります。この著書の中で、当時の興業ベースのプロテニスツアーの当時の姿が描かれています。興業のために、強いマッケンロー、強いコナーズが陽に陰に特別扱いされていた様子が。
さて、そんな当時の男子プロテニス界にも、マナーがよい選手は大勢いました。チェコスロバキア(今はスロバキア)のプロテニス選手であるメシール(メチージュ)は、その中でもひときわマナーがよい選手でした。
さて、ここからがこの稿の本題です。ここでは、メシールのプレーマナーを思い出しながら、プロスポーツの試合でマナーがよいということは、何を意味するのかについて考えてみたいと思います。
私は、メシールの(当時の)試合のDVDをいろいろな形で手に入れて、今、20~30試合程度持っています。こんなにたくさんメシールのDVDを持っている人は、日本では他にあまりいないのではないでしょうか?私の貴重なコレクションです。(ちょっと自慢です(笑)。)
もちろん、すべての試合を、目を皿のよう何度も見ました。1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦などは、もう、何度見たことがわかりません。別項で書きますが、この試合は、私が見たすべてのテニスの試合でベストマッチです。
メシールのプレーを見て、特筆すべきことの一つが、そのプレーマナーです。プロの男子テニス選手で、当時、ここまで審判にクレームをつけることがない選手を、私は他に知りません。負けそうな試合ですら、ジャッジに文句も言わずに淡々とプレーするので、逆に「メシールはやる気があるのか」と思うことがあるぐらいです。どうしてもクレームをつける時には、アウトした場所にボールを置いて審判を見ずにそっぽに歩いていったり、観客席に座って他のお客さんと一緒に「アウトじゃないか」というそぶりをしたり、ユーモアいっぱいで殺伐とした雰囲気にならないやり方でした。
当時(1980年代後半)のテニスプレーヤーでマナーがよい選手としては、例えばヴィランデルがいます。ヴィランデルも、本当にマナーの良いプレーヤーでした。そのヴィランデルですら、それでも、時々審判に文句を言っているのを見ました。
メシールがはっきりと態度でクレームをつけたのは、私のコレクションの中では、ただ一度だけです。それは、1987年のKey Biscayne(アメリカ)でのリプトン国際の決勝戦です。決勝戦の相手は、メシールが苦手としているレンドル。この試合、メシールは珍しくエキサイトしており、試合中、一度、線審に大きな身振りで激しく抗議をしました。レンドルのストロークがベースラインをアウトしていたにも関わらず線審に「イン」と判断されたからです。
メシールがこんなに激しく抗議をするのを見たのは、後にも先にも、この一度だけです。と言っても、そのただ一度ですら、(判定は覆らないのですから)あっさりと引き下がったのですが。(わめきまわり、暴れまわるマッケンローとは大違い。)
なお、皮肉なことに、メシールが公式戦でレンドルに勝利したのは、メシールのキャリアの中で、この一度だけでした。趣味がつりだと言うメシールが、試合後のインタビューで「でっかい魚を釣り上げた」とコメントしたのは有名です。
メシールの、抗議とは全く正反対のシーンを見たことがあります。上に書いた、1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦です。この試合のあるポイントで、エドバーグのファーストサーブがコーナーいっぱいにきれいに決まった時に、線審が「アウト!」とコールしたのです。え?と、驚くエドバーグ。しかし、メシールは、審判に対して何も言わず、当たり前のように「すたすた」と次のレシーブポジションに歩いて行ったのです。
会場がややどよめく中で、エドベリが日本流のスタイルでメシールに向かってお礼のお辞儀をした姿も印象的でした。その後、メシールもエドベリも、何事もなかったようにプレーを続けたのです。
この試合では、マッチポイントでメシールのボレーがネットした後の、メシールの態度が素敵でした。勝利してバンザイをしながらコート後ろの壁に倒れこむエドバーグ。そのエドバーグに向かって、メシールはネットをジャンプして勝者のコートに入っていったのです。勝者をたたえる握手をするために。
セットカウント2-0から2-3で逆転負けしたメシールが、悔しくなかったはずはありません。戦いを終えた二人の選手が、ネットを挟まずに肩を並べて審判席に向かって歩む姿は、今でも私の瞼の裏にはっきりと残っています。
朝日新聞の西村欣也氏は、私の好きなコラムニストの一人です。氏は自分のコラムの中で、しばしばスポーツにおけるジャッジ(判定)について同じことを述べています。「スポーツで審判に文句を言うのは間違えている。なぜなら、“最初から審判は間違えるモノ”だからだ」と。
私も、その意見に賛成です。人間が審判をする以上、間違いは避けることができません。スポーツの試合は、特に対戦型のスポーツは、それを前提としているのです。それが、ルールの中で戦うすべてのスポーツ競技の基本です。
しかし、プロフェッショナルではない、私程度のアマチュアプレーヤーでも、ミスジャッジはつらいものです。文句を言いたくなります。ジャッジに文句を言ったことも、何度もあります。わかっていても、明らかなアウトボールをインとジャッジされると、頭に来ることもあります。それをきっかけにメンタルからガタガタと崩れてしまうこともあります。それが、まあ、普通の(平凡な)人間でしょう。
そう考えると、トッププロでいながら、淡々とプレーするメシールの姿は、プロのスポーツプレーヤーとして、どこか、一段高いところにいるような気がしてならないのです。
当時、メシールと究極の反対の態度を取っていたのが、ご存知、米国のジョン・マッケンローでした。マッケンローは暴言を吐き散らしながら観客の拍手喝さいを浴び、そして、多くのメジャータイトルを取りました。
そのマッケンローは、いまだに世界中のテニスファンの記憶に残っています。一方、メシールはほとんど知られることなく、人々の記憶に残ることなく、短い選手生活を終えました。今、日本でメシールという選手を覚えている人は、熱心なテニスファンでもほんの一握りでしょう。
暴言を吐いてでも、ラインコールや審判に苦情を言い続けても、メジャー大会に勝つことが一番大切なのであれば、プロテニスプレーヤーというのは、なんとさびしくてむなしい職業なのでしょうか。グランドスラムで勝つごとができなかったメシールは、やはり、マッケンローには劣るのでしょうか。
私は、是非、知ってほしいのです。メシールは、もしかしたら、多くの人の記憶に残るプレーヤーではないかもしれない。メシールがテニスの世界に残したものは、マッケンローと比べて多くないのかかもしれない。でも、極東の小さな島国に、たった一人だけれども、そのプレーする姿をまぶたに焼き付け、20年以上もあこがれ続けている日本人がいることを。そのプレーは、コート上での振る舞いは、私に、テニスだけではなく、もっと大きなものとして、心の中に、今も変わらず、どっしりと残っていることを。
⇒この記事の初稿はこちらです。
2年ほど前から再びラケットを握るようになり、それが理由でしょうか、今年(2011年)に入ってからは、時々、テレビ観戦するようになりました。今年の全仏オープンでは、李娜(Na Li)という選手の決勝戦を見たくて、WOWOWにも加入しました。
私がテニス観戦を再開して一番驚いたのは、コートによってはチャレンジというシステムが導入されていたことです。このシステムはあまりにもマンガ的で、初めて見た時には、正直なところ笑ってしまいました。「人間の判定に不満があるときは、機械(センサー)に再判定してもらうなんて…」という感じです。
笑ってしまったのは、後述しますが、スポーツにおけるジャッジというものを、このシステムは根底から無視しているからというのも理由です。こんなシステムが導入されては、プレーヤーはジャッジに苦情を言うことはできなくなりますね。確かに。
余談ですが、このシステムが、RICOH(リコー社)という日本企業が作ったシステムであることにも、別の意味で感心しました。「ああ、テニスコート上で日本が真価を発揮するのは、選手よりも企業なのか…」と。セイコーの時計やダンロップのボール、本当にテニスコートには、日本製品がいろいろなところで活躍しています。
さて、久しぶりにプロのテニスの試合を見て驚いたのは、プレーヤーたちのマナーの良さです。私がかつて見たプレーヤーたち、マッケンロー、コナーズ、レンドル…と比べて、フェデラー、ナダル、ジョコビッチ…たちの、マナーの良いこと。
これは、どうも、チャレンジシステムのおかげだけではなさそうです。
かなりの想像で書きますが、このことは、いろいろなことを示唆しているように思います。たとえば、私が(マナーがよろしくない)たとえで書いた3人は、3人ともアメリカ人(マッケンロー、コナーズ)であるか、またはアメリカに事実上移住した選手(レンドル)です。一方、現在の3名は、3人ともヨーロッパ人です。
アメリカでは、プロスポーツは興業です。エンターテイメントです。表現がよくないのを承知で書くと、アメリカではプロスポーツは観客を喜ばせ、興奮させるための商品です。
一方で、ヨーロッパでは、スポーツに違う香りがします。李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦で書いたように、伝統あるテニススタジアムの空気はヨーロッパの文化の中に溶け込んでいるように思えます。
私がテニスを見なかった20年間で、テニスは、やっと、興業から伝統的スポーツに昇華したのかもしれません。(その中で、チャレンジシステムが果たした役割はさして大きくないと思いますが…。)
ちょうど私がメシールのテニスを見ていたころの選手の一人に、アメリカのブラッド・ギルバードという選手がいます。メシールがオリンピックの決勝戦で戦っているときに、エドバーグと一緒にその決勝戦の会場にいたギルバードの姿をよく覚えています。ギルバートは準決勝で同じアメリカのメイヨットに敗れて、表彰式のために決勝戦を観戦していた(させられていた?)のです。
このギルバートに、Winning Ugly(格好悪くても勝つ)という著書があります。この著書の中で、当時の興業ベースのプロテニスツアーの当時の姿が描かれています。興業のために、強いマッケンロー、強いコナーズが陽に陰に特別扱いされていた様子が。
さて、そんな当時の男子プロテニス界にも、マナーがよい選手は大勢いました。チェコスロバキア(今はスロバキア)のプロテニス選手であるメシール(メチージュ)は、その中でもひときわマナーがよい選手でした。
さて、ここからがこの稿の本題です。ここでは、メシールのプレーマナーを思い出しながら、プロスポーツの試合でマナーがよいということは、何を意味するのかについて考えてみたいと思います。
私は、メシールの(当時の)試合のDVDをいろいろな形で手に入れて、今、20~30試合程度持っています。こんなにたくさんメシールのDVDを持っている人は、日本では他にあまりいないのではないでしょうか?私の貴重なコレクションです。(ちょっと自慢です(笑)。)
もちろん、すべての試合を、目を皿のよう何度も見ました。1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦などは、もう、何度見たことがわかりません。別項で書きますが、この試合は、私が見たすべてのテニスの試合でベストマッチです。
メシールのプレーを見て、特筆すべきことの一つが、そのプレーマナーです。プロの男子テニス選手で、当時、ここまで審判にクレームをつけることがない選手を、私は他に知りません。負けそうな試合ですら、ジャッジに文句も言わずに淡々とプレーするので、逆に「メシールはやる気があるのか」と思うことがあるぐらいです。どうしてもクレームをつける時には、アウトした場所にボールを置いて審判を見ずにそっぽに歩いていったり、観客席に座って他のお客さんと一緒に「アウトじゃないか」というそぶりをしたり、ユーモアいっぱいで殺伐とした雰囲気にならないやり方でした。
当時(1980年代後半)のテニスプレーヤーでマナーがよい選手としては、例えばヴィランデルがいます。ヴィランデルも、本当にマナーの良いプレーヤーでした。そのヴィランデルですら、それでも、時々審判に文句を言っているのを見ました。
メシールがはっきりと態度でクレームをつけたのは、私のコレクションの中では、ただ一度だけです。それは、1987年のKey Biscayne(アメリカ)でのリプトン国際の決勝戦です。決勝戦の相手は、メシールが苦手としているレンドル。この試合、メシールは珍しくエキサイトしており、試合中、一度、線審に大きな身振りで激しく抗議をしました。レンドルのストロークがベースラインをアウトしていたにも関わらず線審に「イン」と判断されたからです。
メシールがこんなに激しく抗議をするのを見たのは、後にも先にも、この一度だけです。と言っても、そのただ一度ですら、(判定は覆らないのですから)あっさりと引き下がったのですが。(わめきまわり、暴れまわるマッケンローとは大違い。)
なお、皮肉なことに、メシールが公式戦でレンドルに勝利したのは、メシールのキャリアの中で、この一度だけでした。趣味がつりだと言うメシールが、試合後のインタビューで「でっかい魚を釣り上げた」とコメントしたのは有名です。
メシールの、抗議とは全く正反対のシーンを見たことがあります。上に書いた、1988年のウインブルドン準決勝のエドベリ(エドバーグ)戦です。この試合のあるポイントで、エドバーグのファーストサーブがコーナーいっぱいにきれいに決まった時に、線審が「アウト!」とコールしたのです。え?と、驚くエドバーグ。しかし、メシールは、審判に対して何も言わず、当たり前のように「すたすた」と次のレシーブポジションに歩いて行ったのです。
会場がややどよめく中で、エドベリが日本流のスタイルでメシールに向かってお礼のお辞儀をした姿も印象的でした。その後、メシールもエドベリも、何事もなかったようにプレーを続けたのです。
この試合では、マッチポイントでメシールのボレーがネットした後の、メシールの態度が素敵でした。勝利してバンザイをしながらコート後ろの壁に倒れこむエドバーグ。そのエドバーグに向かって、メシールはネットをジャンプして勝者のコートに入っていったのです。勝者をたたえる握手をするために。
セットカウント2-0から2-3で逆転負けしたメシールが、悔しくなかったはずはありません。戦いを終えた二人の選手が、ネットを挟まずに肩を並べて審判席に向かって歩む姿は、今でも私の瞼の裏にはっきりと残っています。
朝日新聞の西村欣也氏は、私の好きなコラムニストの一人です。氏は自分のコラムの中で、しばしばスポーツにおけるジャッジ(判定)について同じことを述べています。「スポーツで審判に文句を言うのは間違えている。なぜなら、“最初から審判は間違えるモノ”だからだ」と。
私も、その意見に賛成です。人間が審判をする以上、間違いは避けることができません。スポーツの試合は、特に対戦型のスポーツは、それを前提としているのです。それが、ルールの中で戦うすべてのスポーツ競技の基本です。
しかし、プロフェッショナルではない、私程度のアマチュアプレーヤーでも、ミスジャッジはつらいものです。文句を言いたくなります。ジャッジに文句を言ったことも、何度もあります。わかっていても、明らかなアウトボールをインとジャッジされると、頭に来ることもあります。それをきっかけにメンタルからガタガタと崩れてしまうこともあります。それが、まあ、普通の(平凡な)人間でしょう。
そう考えると、トッププロでいながら、淡々とプレーするメシールの姿は、プロのスポーツプレーヤーとして、どこか、一段高いところにいるような気がしてならないのです。
当時、メシールと究極の反対の態度を取っていたのが、ご存知、米国のジョン・マッケンローでした。マッケンローは暴言を吐き散らしながら観客の拍手喝さいを浴び、そして、多くのメジャータイトルを取りました。
そのマッケンローは、いまだに世界中のテニスファンの記憶に残っています。一方、メシールはほとんど知られることなく、人々の記憶に残ることなく、短い選手生活を終えました。今、日本でメシールという選手を覚えている人は、熱心なテニスファンでもほんの一握りでしょう。
暴言を吐いてでも、ラインコールや審判に苦情を言い続けても、メジャー大会に勝つことが一番大切なのであれば、プロテニスプレーヤーというのは、なんとさびしくてむなしい職業なのでしょうか。グランドスラムで勝つごとができなかったメシールは、やはり、マッケンローには劣るのでしょうか。
私は、是非、知ってほしいのです。メシールは、もしかしたら、多くの人の記憶に残るプレーヤーではないかもしれない。メシールがテニスの世界に残したものは、マッケンローと比べて多くないのかかもしれない。でも、極東の小さな島国に、たった一人だけれども、そのプレーする姿をまぶたに焼き付け、20年以上もあこがれ続けている日本人がいることを。そのプレーは、コート上での振る舞いは、私に、テニスだけではなく、もっと大きなものとして、心の中に、今も変わらず、どっしりと残っていることを。
⇒この記事の初稿はこちらです。
2011年08月03日
プロスポーツ選手に聞いてみたいこと(改訂版)
私の仕事は、ちょっと変わった公務員のような仕事なので、民間の会社員ではないのですが、まあ、広い意味ではサラリーマンです。週末だけテニスを楽しむアマチュアテニスプレーヤーです。だから、というのが正しいのかわかりませんが、普段、プロスポーツ選手と話をする機会はありません。また、有名選手だからと言う理由で、会ってみたいとか、話をしたいとか思うことも、全くありません。
それが別に不満でも、困っているわけでもありません。ただ、いろいろな試合を見たり、また、いろいろな活動を見たりすると、時々、選手に直接聞いてみたいなぁと思うことがあります。
最近でいうと、プロ野球・日本ハムファイターズの二塁手の田中賢介選手。顔はちょっといかつい(すみません!)けれど、でも優しそうな雰囲気の日ハム選手会長です。
さて、最近、田中選手がアウトにした数だけ乳がん検診のためのマンモグラフィー検診をプレゼントするという日本生命のCMが、テレビでよく流れています。BGMもとても良い曲です。ゆずというデュオの「虹」という楽曲のようですね。私は、日常生活(車の運転を含めて)で音楽を聴くという習慣がないのですが、それでも「ゆず」というハーモニーの美しいデュオがいることは、知っています。
このCMは、とても感じのよいCMです。理由はよくわからないのですが、私はこのCMがとても好きです。おそらく、映像から田中選手の誠実さが伝わってくるからだと思います。プロスポーツ選手のボランティア活動をましてやCMで映像にすることは、有名人のボランティア行為の押し売りや売名行為だととらえられてしまうこともよくあります。にもかかわらず、思い切ってCMの企画を受け入れた田中選手の勇気に、素直に感銘しています。
その中で、「恵まれない子どもに」というような抽象的なものではなく、具体的な「乳がん検診の支援」ということをプロ野球選手である田中選手がなぜ選んだのかを、私は知りたいのです。知らなくてはならないことではないのですが、自分の中で、なぜ、自分がこのCMに感銘するのかを理解したいという気持ちと、どこかでつながっています。
上の日本生命のサイトでは、田中選手自身のカラーがピンクなので、同じピンクリボン活動に共感してこの活動を始めたのです…というようなことが書いてありますが、それだけの理由なのでしょうかね?やはり、もう少し、詳しいことが聞いてみたいです。
「書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(中) ナンバーワンになるということ」でも少し書きましたが、私は、プロのスポーツ選手については、そのプレーを理解すればよいと思っています。プライバシーは選手自身のものです。我々ファンがが知る必要はないものだと思っています。
ただ、今回の田中賢介選手のCMのように、メディアを通じて入ってくる事柄について、その背景や理由を知りたくなることがあります。今回で言うと、田中選手に直接、聞いてみたいなぁと思うわけです。
プレーそのものについてであることも、今回のようなプレー以外のことについて知りたい場合もあります。いずれにしても、芸術作品に感銘した時にその理由や背景について理解したくなるように、スポーツでもその理由を知りたくなることがあります。
最近は、ブログや電子メール、ツイッターなどがありますので、選手に直接質問してみる機会はかつてよりは多くなりました。たとえば、メールを送ったら、直接、返事をもらえることもあるでしょう。最近では、ラファエル・ナダル(http://yfrog.com/user/RafaelNadal/profile)がツイッターを始めて、あっという間にフォローアが20万人を超えたようです。
ただ、あまり、現役のプロスポーツ選手には、直接のコミュニケーションは取りたくないというのが正直な気持ちで。現役選手は、今、プレーヤーとして最高のパフォーマンスを見せることが第一目標であり、その準備(トレーニング)と試合、その後のメンテナンスで、すでにいっぱいいっぱいのはずです。それに対して、さらに、ファンとのコミュニケーション…。それよりも、むしろ、少しでも良いプレーを見せてくれることが、私には、一番魅力的です。
そう思うと、相手に負担をかける行為はできるだけしたくないというのが正直な気持ちです。もしかしたら、現役引退後に、プレーヤーにいろいろと質問したり、コミュニケーションしたりする場があるとよいかもしれませんね。
⇒元記事はこちらをご覧ください。
それが別に不満でも、困っているわけでもありません。ただ、いろいろな試合を見たり、また、いろいろな活動を見たりすると、時々、選手に直接聞いてみたいなぁと思うことがあります。
最近でいうと、プロ野球・日本ハムファイターズの二塁手の田中賢介選手。顔はちょっといかつい(すみません!)けれど、でも優しそうな雰囲気の日ハム選手会長です。
さて、最近、田中選手がアウトにした数だけ乳がん検診のためのマンモグラフィー検診をプレゼントするという日本生命のCMが、テレビでよく流れています。BGMもとても良い曲です。ゆずというデュオの「虹」という楽曲のようですね。私は、日常生活(車の運転を含めて)で音楽を聴くという習慣がないのですが、それでも「ゆず」というハーモニーの美しいデュオがいることは、知っています。
このCMは、とても感じのよいCMです。理由はよくわからないのですが、私はこのCMがとても好きです。おそらく、映像から田中選手の誠実さが伝わってくるからだと思います。プロスポーツ選手のボランティア活動をましてやCMで映像にすることは、有名人のボランティア行為の押し売りや売名行為だととらえられてしまうこともよくあります。にもかかわらず、思い切ってCMの企画を受け入れた田中選手の勇気に、素直に感銘しています。
その中で、「恵まれない子どもに」というような抽象的なものではなく、具体的な「乳がん検診の支援」ということをプロ野球選手である田中選手がなぜ選んだのかを、私は知りたいのです。知らなくてはならないことではないのですが、自分の中で、なぜ、自分がこのCMに感銘するのかを理解したいという気持ちと、どこかでつながっています。
上の日本生命のサイトでは、田中選手自身のカラーがピンクなので、同じピンクリボン活動に共感してこの活動を始めたのです…というようなことが書いてありますが、それだけの理由なのでしょうかね?やはり、もう少し、詳しいことが聞いてみたいです。
「書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(中) ナンバーワンになるということ」でも少し書きましたが、私は、プロのスポーツ選手については、そのプレーを理解すればよいと思っています。プライバシーは選手自身のものです。我々ファンがが知る必要はないものだと思っています。
ただ、今回の田中賢介選手のCMのように、メディアを通じて入ってくる事柄について、その背景や理由を知りたくなることがあります。今回で言うと、田中選手に直接、聞いてみたいなぁと思うわけです。
プレーそのものについてであることも、今回のようなプレー以外のことについて知りたい場合もあります。いずれにしても、芸術作品に感銘した時にその理由や背景について理解したくなるように、スポーツでもその理由を知りたくなることがあります。
最近は、ブログや電子メール、ツイッターなどがありますので、選手に直接質問してみる機会はかつてよりは多くなりました。たとえば、メールを送ったら、直接、返事をもらえることもあるでしょう。最近では、ラファエル・ナダル(http://yfrog.com/user/RafaelNadal/profile)がツイッターを始めて、あっという間にフォローアが20万人を超えたようです。
ただ、あまり、現役のプロスポーツ選手には、直接のコミュニケーションは取りたくないというのが正直な気持ちで。現役選手は、今、プレーヤーとして最高のパフォーマンスを見せることが第一目標であり、その準備(トレーニング)と試合、その後のメンテナンスで、すでにいっぱいいっぱいのはずです。それに対して、さらに、ファンとのコミュニケーション…。それよりも、むしろ、少しでも良いプレーを見せてくれることが、私には、一番魅力的です。
そう思うと、相手に負担をかける行為はできるだけしたくないというのが正直な気持ちです。もしかしたら、現役引退後に、プレーヤーにいろいろと質問したり、コミュニケーションしたりする場があるとよいかもしれませんね。
⇒元記事はこちらをご覧ください。
2011年08月03日
美しいテニスは機能的なテニス
このブログは、チェコスロバキア(現スロバキア)の往年の名選手であるミロスラフ・メシール(メチールまたはメチージュ)について、自由に書くためのブログです。
メシールは、1980年代の後半に活躍した右利きプレーヤーです。シングルスの最高ランキングは第4位でしたので、それほど有名な選手ではなかったかもしれません。今は、メシールのことを覚えているテニスファンは少ないでしょう。
1990年のウィンブルドンで引退するまで、全豪オープンと全米オープンで決勝戦、ウィンブルドンと全仏オープンで準決勝戦まで進んだことがありますが、グランドスラムではシングルス・ダブルス、ともに優勝はありません。
その代わりに、メシールにはオリンピックでのシングルス優勝という輝かしい記録が残っています。これが、メシールのキャリアで最高の成績と言ってよいでしょう。
そんなメシールですので、今、その試合を見る機会はあまりありません。Youtubeにはいくつか、当時の試合の映像があります。興味がある方は、ぜひ、一度、見ていただきたいと思います。
現代テニスから見れば、メシールのテニスは、オールドスタイルに見えると思います。いや、当時ですら、メシールのテニスはクラシックだと言われていました。
さて、なぜ、私が、メシールのことを好きなのか。それは、「美しいと思うから」です。メシールのプレーは、美しい。だから、私は、メシールのプレーが好きです。
かつて、作家の村上龍氏がこんなことを書いていました。資料が手元にないので、思い出しながら書いてみます。
村上龍氏が、ソルボンヌ大学哲学科の女子学生を連れて、全仏オープンの観戦に行った時のことです。村上龍氏によると「フランスのインテリは、スポーツなど見ない」そうなのですが、彼女も、テニスを観戦するの初めてで、テニスを全然知らなかったとか。もちろん、テニスの選手のこともなにも知らない。その彼女が、メシールのプレーを見ていったそうです。
「きれいね」と。
別項で書こうと思いますが、美しいということは、スポーツの世界では、機能的であるということでもあります。勝敗を追求するスポーツの世界において、強い選手に美しいプレースタイルが多いのは、理由があるのです。
このブログでは、そんなことも考えてみたいと思います。
メシールは、1980年代の後半に活躍した右利きプレーヤーです。シングルスの最高ランキングは第4位でしたので、それほど有名な選手ではなかったかもしれません。今は、メシールのことを覚えているテニスファンは少ないでしょう。
1990年のウィンブルドンで引退するまで、全豪オープンと全米オープンで決勝戦、ウィンブルドンと全仏オープンで準決勝戦まで進んだことがありますが、グランドスラムではシングルス・ダブルス、ともに優勝はありません。
その代わりに、メシールにはオリンピックでのシングルス優勝という輝かしい記録が残っています。これが、メシールのキャリアで最高の成績と言ってよいでしょう。
そんなメシールですので、今、その試合を見る機会はあまりありません。Youtubeにはいくつか、当時の試合の映像があります。興味がある方は、ぜひ、一度、見ていただきたいと思います。
現代テニスから見れば、メシールのテニスは、オールドスタイルに見えると思います。いや、当時ですら、メシールのテニスはクラシックだと言われていました。
さて、なぜ、私が、メシールのことを好きなのか。それは、「美しいと思うから」です。メシールのプレーは、美しい。だから、私は、メシールのプレーが好きです。
かつて、作家の村上龍氏がこんなことを書いていました。資料が手元にないので、思い出しながら書いてみます。
村上龍氏が、ソルボンヌ大学哲学科の女子学生を連れて、全仏オープンの観戦に行った時のことです。村上龍氏によると「フランスのインテリは、スポーツなど見ない」そうなのですが、彼女も、テニスを観戦するの初めてで、テニスを全然知らなかったとか。もちろん、テニスの選手のこともなにも知らない。その彼女が、メシールのプレーを見ていったそうです。
「きれいね」と。
別項で書こうと思いますが、美しいということは、スポーツの世界では、機能的であるということでもあります。勝敗を追求するスポーツの世界において、強い選手に美しいプレースタイルが多いのは、理由があるのです。
このブログでは、そんなことも考えてみたいと思います。