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メシールのテニス 昔懐かしいスロバキアのミロスラフ・メシールの話題を中心に、テニスに関することをアマチュアの視点から自由に書いています。なお、私はテニス専門家ではないので、何か正しくないことを書いているかもしれませんが、その点、ご容赦ください。

メシール
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伊達公子の引退の理由

佐藤純朗氏の「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」は、この二人の選手の2年間を追いかけたノンフィクションです。当時の伊達・神尾という日本のトップ選手が世界を転戦する姿を、グランドスラム大会を中心に丁寧に追いかけています。本書は、伊達の、そして神尾の引退で結ばれます。しかし、二人の引退までの道は、全く違うものでした。

物語の終わりに、神尾は、右肩痛との戦いの果てに、いよいよ引退を決意します。本人の苦悩の深さは誰も理解することはできないでしょうが、故障が引退の主な理由であったことについては、誰もが納得するでしょう。

一方、伊達の引退の理由は、1年にわたり、世界のビッグトーナメントの場で伊達の取材を続けた佐藤をもってしても、明確にはできなかったようです。

当時、伊達の引退の理由は、スポーツ選手の引退というよりも、有名人の引退として、様々な憶測が飛び交ったように記憶しています。したがって、佐藤本人は決して認めないでしょうが、この著作がその謎解きを期待した読者に向けて出版されたことは、想像に難くありません。(とはいえ、この本を「伊達公子引退の謎」というような品位のないタイトルにしなかったことは、佐藤の譲れない線だったのでしょう。)

テニスプレーヤーは、テニスコートの上で勝負というドラマを演じます。ドラマをじっと見つめるファンとしては、そのプレーの理由を知りたいというのは当然の心理でしょう。その意味では、読者はがっかりしたかもしれません。この作品を最後まで読んでも、伊達の引退の理由について納得できる説明はありませんでした。

引退するかどうかはプレーヤー自身が決めることです。プレーヤーは、コート上の素晴らしいプレーをファンに見せたいと願うでしょうが、引退に至る苦悩や理由を見せたいとは思わないはずです。したがって、私は、伊達の引退の理由について知りたいとは思いません。ただ、神尾ほどの大きな故障がないように見えた伊達が、グラフと対等に戦ったその同じ年に引退することには、やはり違和感を感じました。

この著書で伊達についてのクライマックスは、2箇所あります。二つとも、グラフとの戦いです。一つは有明のフェデレーションカップ、もう一つはウインブルドン準決勝です。実は、私は、後者のウインブルドン準決勝で、センターコートでのあるシーンについて記述されていることを期待して、この本を読んだのです。

それは、ウインブルドン準決勝で、セットオール(1-1)になった後、日没順延になった翌日の、サスペンデッドゲームについてです。といっても、第3セットのゲームそのものではありません。第3セットが開始される前の、いわゆる試合前のウォーミングアップ練習についてです。

試合前の二人のウォーミングアップでのストローク練習が、私の中で、強く印象に残っています。記憶はあいまいなのですが、グラフは、まともに伊達と打ち合おうとしなかったのです。少しラリーが続くと、わざとボールをアウトさせて、伊達にまともな練習をさせなかったのです。

それは、立ち上がりがよくない伊達に対して、少しでも調子にのらせないというグラフの計算だったように、私には見えました。

それは、ルールに反する行為ではありません。しかしそれは、普段のコート上で見せる美しい姿でも、女子ナンバーワン選手の堂々とした姿でもありませんでした。勝つためにであれば、ルールの範囲でどんなことでもする、いやどんなことをしてでも勝つ(勝つ可能性を高める)ことが、トップ選手に課せられた宿命であるのだと、私は知らされたのです。

全くの想像でしかないのですが、伊達は、自分が目指すナンバーワンというポジションが、そういうポジションなのだと知って悲しくなったのではないかと、そんな風に想像するのです。ナンバーワン以外の選手にとってたどり着きたいという願望の対象がナンバーワンなら、ナンバーワンの選手にとって守らねばならないという義務の対象がナンバーワンなのです。願望の対象としてこれほどまでに美しく輝いて見えるその地位は、義務になった瞬間に輝きの姿を失ってしまうこともあるということです。

このことは、著作の中では触れられていませんでした。きっと、私の考えすぎなのでしょう。ただ、私の脳裏からは、あの、試合前のウォームアップのグラフの姿が、今でも消えずに残っているのです。

神尾は、けがを押してトーナメントに参加するために摂取する痛み止めの薬が多すぎた場合に、引退後の日常生活において副作用を及ぼすのではないかと心配していたと、この著書にはあります。ベストのプレーができなくなったこと以外に、この心配も引退の理由の一つであったことは、想像に難くありません。

全く異なる道を通って引退という最終地点にたどり着いた伊達と神尾の二人ですが、著書の中で、一つだけ、全く同じことを言っています。「自分の人生は、テニスだけではない。選手としての人生が終わった後には、それ以外の人生が待っている。その人生も豊かなものにしたい。」勝利することが目標のすべてではない、優勝することが究極の目標とは限らないという二人の考え方が、そこにはあります。

すべての選手には、試合で勝つために、トーナメントで優勝するために戦ってもらいたい。そのために、最高のプレーを演じてもらいたい。しかし、優勝の結果として後に残るのは、「記録」という紙の上の事実だけです。紙になった事実は、すでに誰のものでもありません。もはや、その選手のものですらないのです。

したがって、私は、優勝という事実がいつまでも残る最も大切なことだとは思いません。優勝に価値があるのは、両者が全力を尽くして戦っているその瞬間までです。勝つために全力を尽くすその姿は、確かに美しい。でも、その瞬間が過ぎ去った後に残る大切なこととは、いったい何なのでしょうか?

私は、1980年代の後半に活躍したスロバキアの男子テニス選手であるミロスラフ・メシールが好きです。「好きだった」ではなく、「今でも好き」なのです。すでに引退したプロスポーツ選手について、「(今も)好きだ」というのと「(当時)好きだった」というのはかなり異なると思いませんか?

メシールを好きなのは、彼が強かったからではありません。たとえば、メシールは1988年のソウルオリンピックで優勝していますが、それが、私がメシールを今でも好きな理由ではありません。勝ち負けの結果でプレーヤーを好きになるのではないのです。

メシールが試合の中で見せるプレースタイルは、その戦略は、そしてそのプレーマナーは、私には、彼が時間をかけて作りだしたオリジナル作品のように見えました。単なるスポーツを超えた、メシールの人格を反映した”作品”に、私の目には映ったのです。その”作品”は、今でも私の中で根付き、体の一部となっています。私は、その”作品”が好きになり、そして、その作者であるメシールが好きになったのです。(このことは、以前、「真にマナーの良いプレーヤーは誰か?」という記事の中で書きました。)

選手が作り出す最高のプレーという”作品”の中で、その理由を知りたいというのは、作品に対する敬意からくるものです。選手について知りたいことがあるとすれば、選手の個人的なことではなく、最高のプレーという”作品”の背景にある”モノ・理由”なのだと思います。

この著書が、伊達と神尾という二人のコート上での”作品”と、その背景を浮き上がらせるまでには至らなかったのは、残念でした。私は、「真にマナーの良いプレーヤーは誰か?」に書いたウインブルドンのエドバーグ戦での潔さなど、もし、メシールに会うことがあればぜひ聞いてみたいことが、20年の時を超えて今でもあるのです。

⇒この記事の元記事はこちら
日記 | 投稿者 メシール 08:24 | コメント(0)| トラックバック(0)

李娜(Na Li)は復活できるか?

2011年の全仏オープンで優勝した後の李娜(Na Li)の成績が冴えません。ウインブルドンでも、全米オープンでも、期待に反する早いラウンドで敗退してしまいました。

李娜は復活できるのでしょうか?

自分から投げかけたこの問いですが、私の答えは、無責任にも「分からない」です。年齢的に考えても、絶対にカムバックできるとは簡単には言えないでしょう。

が、私はこう言いたいのです。「別に、カムバックできなくてもいいじゃん。だって、李娜のキャリアは、李娜のものなんだから。」

李娜以外の我々が、彼女のキャリアをどうこう言ってもしょうがないことです。私は、ただ、彼女がどのように彼女のテニスライフを楽しむかが見たいだけです。もし、彼女がテニスを楽しめなくなったとすればそれはとっても不幸なことですし、その時には、いよいよ、キャリアを終わらせるときだろうと思います。しかし、李娜がテニスを楽しめる限りは、私も李娜のテニスを楽しみたいと、そんな風に思うのです。

李娜の全仏オープン決勝で、彼女が背負っているものの大きさを感じ、”ナ・リ(Na Li)の全仏オープン2011”というタイトルでブログに書きました。しかし、李娜自身は、中国が国家的にスポーツ選手を育成する、いわゆるナショナルチームを離れ、プライベートチームを作って戦う道を選びました。インタビューでも「私は、国を背負ってプレーしているのではないわ」と言っています。

一方で、"Can you tell the Chinese don't teach me how to play tennis?"という面白いことを、試合中に審判に対して言ったりもしています。「中国人にはテニスがわからないとでもいうの?」とでも言いたそうで、むしろ自分が中国人選手であることは意識していることが分かります。

これまでの李娜のインタビューをいろいろ調べてみましたが、「面白くて楽しいインタビュー」という表現がぴったりです。「昨晩は隣に寝ている夫(コーチとしてツアーに同行している)のいびきがうるさくて1時間ごとに起こされたから、調子は良くなかったわ!」とか、「お母さんに、自分の試合を見に来てよと言っても、私には私の生活があるからと、絶対に見に来てくれないのよ!」とか、自分や自分の家族のことをネタに、観客を楽しませてくれます。それ以外にも、インタビューで、懸命に面白いことを言おうとしているシーンを、何度も見ました。

李娜は、全豪オープンで準優勝し、全仏オープンで優勝しているトップ選手です。もっと、堂々としても誰も文句は言わないはずです。母国語ではない英語で、自分や自分の家族、身の回りの人を題材にしてジョークを言い、観客を笑わせる必要がない立場です。

李娜の英語は、下手ではないのですが、子どものころからアメリカに渡っている外国人ほどは流暢でははありません。ある程度の年齢になってから、世界を渡り歩くうちにだんだん身についた英語なのでしょう。(だから、時々、文法を間違えていたりもしています。)でも、李娜はそんなことに、気にもしません。自分から、いろいろなジョークを交えて、積極的に話します。

全仏オープン決勝直後のインタビューでも、「試合中、リラックスしているように見えましたが?」という質問に、「いいえ、実は、とても緊張していたの。でも、相手に悟られたくなかったので、ちょっとごまかしていたのよ(I was cheating)」と笑いながらコメントしています。あえて言う必要のない最後の一言に、やはり何か面白いことを言って楽しませたいという李娜の気持ちが見え隠れします。

引っ込み思案な日本人、自己主張の強い中国人、どちらのタイプともかなり違います。多くの人が「アジア人」から想像するイメージとは、李娜はかけ離れています。

ふと、国際会議のバンケット(パーティー)で、日本人と中国人は他国からの参加者に積極的に話しかけず、仲間内で集まってしまうことを思い出しました。李娜だったら、周りを気にせず、どんどん、いろんな人に話しかけていくでしょう。

プロテニス選手でありながら一度大学に戻り勉強をするなど、自分の道は自分で選び、自分のライフプランで歩み続けるのが、李娜です。組織や他人に依存せず、自分で考え、行動し、表現できる選手なのです。

2011年の全仏オープン決勝の解説で神尾米さんも言っていましたが、試合後の李娜は、試合中とは全く異なる、愛らしい表情をします。試合中は、眉間にしわを寄せて、とても厳しい表情なのです。試合が終わるとクールダウンし、試合結果を引きずらないタイプだということが分かります。

これらをすべて考えると、私には、李娜という選手の本質が見えてくるような気がします。

李娜は、オフコートではもちろん、オンコートでも、テニス選手としての自分を外から冷静に、客観的に見る”もう一人の自分”を持っているのだと思います。中国という、世界のテニスシーンではマイナーな国の出身である自分自身を楽しみ、観客がそれをどう見るかを理解しているもう一人の自分がいます。

おそらく、試合に負けた時でさえ、がっかりし、落ち込んでいる自分の姿を外から冷静に見るもうひとりの自分を失ってはないのでしょう。勝った時には、その喜びを観客と一緒に分かち合おうとジョークを飛ばす自分がいるのです。「日本人にはテニスが分からないとでもいうの?」なんて、試合中に審判に言う(しかも、英語で!)日本人選手がいるでしょうか?もう一人の李娜は、試合中ですら、自分が中国人選手であることを楽しんでいるように見えます。

ここまで、自分を客観的に見ることができる選手を、私は、初めて知りました。

テニスはスポーツですから、そんな自分を客観的に見るもうひとりの自分がいても、試合に勝てるとは限りません。メンタルをコントロールできることと、試合をコントロールできることは、必ずしも同じではありません。だから、私は、李娜が世界ランキングでで上位に来るかは分かりません。

でも、李娜を応援したいと思います。李娜がアジア人だからではありません。李娜のインタビューが面白いからでもありません。

李娜を応援することで、李娜と一緒にテニスを楽しむことができるからです。オンコートでも、オフコートでも、試合を楽しみ、勝敗を楽しむもう一人の李娜がいて、きっともう一人の李娜は、勝っても負けても観る者を楽しませてくれると思います。李娜がテニスを楽しみ続ける限りは、そんな李娜のテニスを、私も一緒に楽しみたいと思います。

⇒元記事はこちら
日記 | 投稿者 メシール 04:28 | コメント(0)| トラックバック(0)

世界で通用するテニス(改訂版)

クルム伊達は、日本人としては数少ない、世界の舞台で戦えるプレーヤーです。(でした、というのが正しいかもしれません。私が書いているのは、グラフと戦っていたころの伊達のことです。)クルム伊達のプレーについて、なぜ彼女が世界で通用するのか。

まず、クルム伊達について書く前に、Li Na(李娜)について考えてみたいと思います。二人とも、世界のトップに近い経験を持つアジア人女子プレーヤーです。

Na Liのフレンチオープン2011で書きましたが、私には、全仏オープン決勝のNa Liは、センターコートで、テニス発展途上であるアジア出身という宿命を背中に背負いながら欧米の歴史と戦っているように見えました。

しかし、その後、いろいろ調べてみると、Li Naはオープンでアメリカナイズされた個性(パーソナリティー)の持ち主だということが分かりました。(たとえば、李娜(Na Li)は復活できるか?をご覧ください。)Na Liは、アジアを代表するわけではなく、中国という国を背負うわけでもなく、一人のプレーヤーとして欧米のテニスの歴史に挑んでいたのです。

世界のテニスシーンで、これまでほとんど存在感を示したことがない中国(アジア)の女性プレーヤーが、なぜ、堂々と、グランドスラムの決勝で戦い抜くことができたのか?その理由の一つは、Na Liの良くも悪くも中国人女性らしくないといってもよいパーソナリティーにあるように、私には見えました。

Na Liのパーソナリティーについては、山口奈緒美さんのコラムでも、その明るくオープンなパーソナリティーがレポートされています。特に印象的なのは「アジアの常識を超えたパワーテニスに通じるリーのスケールの大きさを感じる」という部分です。私は、全仏オープン決勝の舞台でのNa Liからは、これまでのアジアのプレーヤーとは違うものを感じました。

これまで見てきたアジアプレーヤーは、大舞台において、どうやって自分をその舞台にマッチさせるかで苦しんできました。Na Liは、違いました。彼女は、試合の中で、自分の立ち位置を探し続けていました。欧米の長いテニスの歴史の中で、中国人として勝者になる絵を描こうとしていたのです。

中国のために戦うということと、中国人として戦うということは、全く意味が違います。この2つの違いが分からないから、いまだに多くのアジア人プレーヤーは、日本人プレーヤーは、世界のひのき舞台に立つことができないでいるのです。

さて、クルム伊達です。私は、プレースタイルも、年齢も、国籍も全く異なるこの二人に、どこか、共通の部分を感じています。

ウィンブルドン2011のクルム伊達対ウィリアムスの試合は、クルム伊達がまだ世界のトップと互角に戦えるということを示した試合だと評されています。しかし、私は、このゲームをテレビで観戦していて、別のことが気になりました。それは、ゲーム中に見せるクルム伊達の日本人女性独特のしぐさです。

たとえば、クルム伊達がミスをした時見せる「あ~」と言いながらしゃがみこむしぐさなどです。このような仕草は、全く、日本女性(女の子?)独特のしぐさです。下手をすると、「トップ選手なんだから、もっと堂々とした姿を見せてほしい」とは思う人もいるのではないでしょうか?

しかし、他人の目を気にすることなく、クルム伊達は、全く屈託なく、日本人っぽいジェスチャーや声、しぐさをコート上で見せます。そして、このことこそが、クルム伊達の強さの秘訣ではないのかと思いました。

日本人プレーヤーが、なぜ、世界のテニスシーンでトップまたはトップクラスになかなか躍り出ることができないのか。なぜ、クルム伊達は、当時、世界No.1のグラフに勝つことができたのに、他の日本人プレーヤーにはできないのか。

コート上での日本人っぽいジェスチャーが強さの理由だとは言いません。しかし、クルム伊達の強さは、他人の意見など気にもせずに、日本人らしさをウインブルドンのコートに平気で持ち込んでくるそのマイペースなスタンスに、理由の一つがあるのだと、私は思います。

日本人らしさを出すことが大切なのではありません。実際、クルム伊達も、よいポイントを取った時には、”Come on!”と英語で言ったりしています。すべてのアクションが日本人的なわけではありません。

日本人であることを、あるがままに、自然にコートに持ち込むこと。それができることが、クルム伊達の強さだと思うのです。テニス発展途上国である中国出身であることを楽しんでいるNa Liと、そこに、共通のものを感じます。

つまるところ、ルールなどなにもないのです。自分の中にしか。日本人の女の子っぽいしぐさも、思わず口に出る英語も、それが自分のモノであれば、他人の目など気にする必要はないのです。

一番大切なことは、自分の方法で自分を表現し、自分の方法で戦うこと。それができるかどうかが、世界の舞台で戦うことができるかどうかの大きな壁だと思います。

もちろん、国際社会(国際的なテニスの大会)においては、守るべきルールやマナーはあります。それらを破ってまで自己を貫くということは、国際社会では許されません。しかし、それ以外については、躊躇することなく、周りの目を気にすることなく、自分のやり方を貫けばよいのです。

一番よくないのは、他人の目を気にして、自分を出し切らない(出し切れない)ことです。案外、そういう選手が多いのではないでしょうか。特に、日本人は、協調ということを大切にすることを、子どものころから教育されています。そのことは素晴らしいことであり、日本の誇るべき社会文化だと思います。ただし、国際スポーツでは、それが裏目に出ることがあるのです。

選手がすべきことは、まずは、国際社会のルールの中でしてはいけないこととしなくてはならないことを分けて理解する。その基本ルールを十分に身に着けたら、今度は、それら以外については、他人の視線を一切気にせずに自分を出し切る。これが、国際的な大会で通用する秘訣だと思います。

選手のコーチや指導者、支援者がすべきことは、まだまだ、たくさんあるようです。

ただし、前提となることはあります。世界で通用するには、周りの視線を意識せずに自分のオリジナルなスタイルを貫くことですが、それは、あくまで、「貫くべき自分のスタイル」を確立できてからの話だということです。自分のスタイルがなくては、貫くモノもありません。

そして、自分の方法を、ゼロから作るのは難しいものです。「学ぶ」という言葉の語源は「真似をする(まねぶ)」ということだそうです。テニスに限らず、多くの技術は、真似をするところから始まるのです。

真似をするというのは、言い換えると、周りの影響を受けるということです。周りに影響を受けながら自分の方法を確立し、周りに影響を受けずに自分の方法を貫く。

この一見すると矛盾することを、あらゆるトップランナーたちは、行ってきました。これはテニスの世界だけの話ではありません。

そのタイミングの切り替わりはどこにあるのでしょうか。

おそらくそれは、オリジナル方法を真似し続けた結果、それが自分の体の一部になった瞬間だと思います。真似をするだけの対象は、おそらく完成度の高いものです。それを自らが取り込んだということは、いわば、自分は、その技術の後継者になったということです。

そこから先は、自分の道です。自分で切り開かねばなりません。

どこで、自分の道を歩き始めるのか。その判断ができるかどうかが、もしかしたら、いわゆる「一流」とう道を歩くかどうかの必要条件なのかもしれません。
日記 | 投稿者 メシール 01:47 | コメント(0)| トラックバック(0)

古いビデオを観なおしてみませんか?

今日、二人の方とシングルスの試合をしていて、ふと思ったことがあります。私は、このブログのタイト通り、メシールのテニスを目指しています。何年にもわたり、メシールのプレーを分析し、試行錯誤を重ねることで、圧倒的に力の差がある場合は別ですが、同程度の技量の相手であれば、少しずつ、メシールの技術を自分のプレーに部分的に取り込むことができるようになってきたようです。

というのは、ゲーム後に、二人から同じことを言われたからです。「あなたのバックハンドは、フォア側に来るのかバック側に来るのか全くわからないので、武器になりますね。」これは、私にとっては、最大の賛辞です。

マジカル・ミステリー・メシールで書いたように、最近、Tennis Journalの古いバックナンバー(1987年8月号)を見つけました。その中で、福井烈氏がメシールのバックハンドストロークの連続写真を解説しています。二つ並んだメシールの順クロスと逆クロスの2つの連続写真について、福井氏はこのようにコメントしています。「この3-4コマ目(インパクト直前)の写真を見てもらうと分かると思いますが、メシールの場合、順クロスと逆クロスに打つフォームが全く同じなので、どちらにボールが来るのか、全くわからないのです。」福井氏は、直前のジャパンオープン2回戦でメシールと戦っている(2-0でメシールの勝利)ので、対戦した印象でもあるのでしょう。

プロテニスの世界では技術はどんどん進化して、20年以上前のメシールのプレースタイルは、現代テニスでは通用しないかもしれません。しかし、私ぐらいのレベルのテニスであれば、メシールの技術は、今でも十分に通用すると思うのです。いやむしろ、かつてのプロのプレースタイルを現在のアマチュアが導入することは、望ましい側面もあるかもしれません。

今、テニスコートに行くと、若い人を中心に、ナダルやジョコビッチのようにコートのどこからでもパワフルなボールを打とうとするプレーヤーを見かけることがあります。今日の試合の相手も、とてもよいフットワークと熱意のあるプレースタイルなのに、目指すテニスが難しすぎて、いくつものポイントで自滅していました。もし、そのような人が、今の男子プロのテニスをテレビで見て、それに影響を受けているのだとすると、それは不幸なことだと思います。誰から、どんなテニスを学ぶのかは、アマチュアにとっても、大切なことであるはずです。

メシールのテニスを推奨するつもりではないのですが、メシールのようなフラットドライブ系のグランドストロークは、古いテニスだと捨てたものではありません。少なくともアマチュアの中上級クラスでは十分に通用します。フラットドライブは、スピン系のボールと比較すると試合では不安定になりやすいものの、ボールコントロールがしやすく、特に鋭角のクロスとダウンザラインを打ち分けることができます。そのために、相手のの裏をかいたり、予想しない角度でのボール配球ができるため、ゲームを楽しむには最適です。

25年前のビデオは、もしかしたら、今のアマチュアの良い教材になるかもしれません。肉体的に難しいプレーを目指すよりも、洗練されて理にかなったプレーを目指す方が、プレーが楽しくなるという人もきっといると思います。

⇒この記事の元記事はこちら
メシール | 投稿者 メシール 08:03 | コメント(0)| トラックバック(0)

テニス日記更新しました

テニス日記を更新しました。レベルは中~中上級ですが34勝21敗になりました。勉強することはいろいろあります。勉強すれば、少しずつ、勝率は上がるものだと(まじめに)思っている今日この頃です。
日記 | 投稿者 メシール 19:38 | コメント(0)| トラックバック(0)

全米オープン2011のカメラワークは変わってしまった…

全米オープン2011は、男女とも試合をテレビ観戦する時間がほとんどありませんでした。いろいろとよい試合があったみたいで、残念です。

じっくり観戦したのはフェデラーが2セットアップから逆転負けした試合の最初の2セットだけでした。昼間の自分のテニスで疲れていて、きっとフェデラーが勝つだろう思って眠ってしまったのですが、次の朝、結果を聞いてびっくりでした。

ということで、今年(2011年)の全米オープンについては、何も書くことがないのです…。が、一つだけ、テレビ放送で気が付いた点があります。そのことを書いてみようと思います。

4つのグランドスラム大会の放送のカメラワークには、それぞれ特徴がありました。ありました…と過去形で書いたのは、最近のグランドスラムのテレビ放送をあまりじっくりとみていないからです。私が知っているのは、1990年頃の話です。主として、4大大会のセンターコートのカメラワークについて書きます。

まず、全豪オープンですが、メルボルンの芝の大会のころは、正直なところひどいカメラワークでした。クーヨンのセンターコートでは、上の方からコート全体を俯瞰の固定カメラで映すだけです。もちろん、地上に近いカメラもありましたが、メインは俯瞰カメラでした。選手も小さくしか映りません。ボールも見づらくて、わかりにくい映像でした。

全仏オープンは、今でもそうだと思いますが、プレー以外の映像をしきりにさしこみたがります。見栄えの良い(美人の?)観客、ボールボーイ、コートの風景…。選手を映す場合にも、カメラを傾けて映してみたりと、とにかく「おしゃれな映像」を意識した番組作りの姿勢が見て取れます。クレーコート上のプレーは展開がやや遅くて地味に見える傾向にあるので、プレー以外の映像を華やかにしたいという意図かもしれません。このカメラワークは、おそらく、現在でも続いていると思います。

ウインブルドンは正攻法です。さすが、グランドスラム大会の中でも最も由緒があるだけあり、カメラワークもどっしろと構えたものです。全仏オープンのように奇をてらうこともなく、選手とプレーを正面から放送します。安心してゲームを楽しむことができる映像作りです。

グランドスラム大会の中で最も印象的だったのが、全米オープンでした。私は、全米オープンの映像が一番好きでした。好きというよりも、自分のテニスの勉強(参考)になる映像だったのです。

当時の全米オープンの映像は、選手と同じ高さの位置にカメラがありました。このカメラは、選手の背後から選手とボールを追いかける映像を見せてくれました。この映像はすごかった。この近距離で選手やボールの動きを追いかけるということは、固定カメラでは無理なのです。つまり、ボールに合わせて、常にカメラを左右に振ることになります。

これは、カメラマンやディレクターには大変な労力だと思います。しかし、そのおかげでボールの軌道や勢い、選手のフットワークとラケットワークなど、生々しく見ることができます。メシールがどんなフォームでどんなふうにボールを打つのかも、このカメラで随分とみることができました。Youtubeで公開されているヴィランデル戦をぜひ見てみてください。

しかし、今年(2011年)の全米オープンでは、この選手目線のカメラワークを(ほとんど)見ることができませんでした。どちらかというと、ウインブルドンと同じような映像制作になっていました。どうしてなのか?いつごろから変わってしまったのか?理由は時期はわかりませんが、あのすばらしいカメラワークがもう見れなくなったのだとすると、とても寂しいことです。ぜひ、復活してもらいたいです。
試合観戦 | 投稿者 メシール 00:27 | コメント(0)| トラックバック(0)

テニス日記(シングルス)

少し前から、自分のテニスの試合の記録(日記)をつけはじめました。主として、シングルスゲームの記録を取っています。

他人のテニスのゲームの日記を読んで面白いのかどうかわかりませんが、何かの参考になるかもしれませんので、もし興味があればご覧ください。

⇒テニス日記はこちら
日記 | 投稿者 メシール 23:36 | コメント(0)| トラックバック(0)