2012年02月09日
スロバキアナショナルテニスセンター(Sibamac Arena)訪問
2012年2月7日、ヨーロッパ全体が寒波で震えているとある日に、スロバキアの首都ブラチスラバを訪問しました。というよりも、ブラチスラバのナショナルテニスセンターを訪問(見学)に行ってきました。「2012年再びブラチスラバへ(1)ナショナルテニスセンター訪問」に写真つきでまとめましたので、よろしければご覧ください。
また、その際に一緒に書いた、ブラチスラバの街のレポート(「2012年再びブラチスラバへ(2)ブラチスラバの街」)」もご一緒にどうぞ!
また、その際に一緒に書いた、ブラチスラバの街のレポート(「2012年再びブラチスラバへ(2)ブラチスラバの街」)」もご一緒にどうぞ!
2011年10月31日
テニスの心理学(書評:ヴィック・ブレイデン著「TENNIS2000」第9章)
中古書店で、ヴィック・ブレイデンのTennis2000という書籍を購入しました。分厚い本で、最初から最後まで読むのは難しそうですが、興味のある章だけを拾い読みしています。
ヴィック・ブレイデンは、私でも知っている有名なアメリカのテニスアカデミー運営者の一人です。
技術についての章も面白いですが、第9章の「テニスの心理学」という章を興味深く読んでいます。何かにつけて一番であることがすべてと思われているアメリカのスポーツ界において、この章で、ブレイデンは、誰もが1番になれるわけではないのだから、テニスにはもっと大切なことがあるということを述べています。
その中で、「テニスに現れる個人の人格について」という項目があり、以前書いた、「人格はプレースタイルを超えることができない」という記事を思い出しました。
ブレイデンは書きます。「テニスをすると、おさえつけられていたその人の持っている本来の性格が現れてくる」と。村上龍氏の言うところの「人格はプレースタイルを超えることができない(その人の人格が必ずプレーの中に見えてくる)」ということを、ブレイデンも言っているのです。
ブレイデンは、こんなことも書いています。「前の国連大使であるアンドリュー・ヤング氏は、同僚のテニスコートでの振る舞いを観察して、その人の性格について貴重な情報を得たそうである。」
私は、こんなふうに考えます。
つまり、我々は、テニスを通じて、自分の日常での性格をコントロールできる可能性がある、と。日常では難しくても、テニスによって自分を変えていくのです。
私は、昔から、自分の感情をコントロールすることが苦手でした。特に、自分が追い込まれたり、頭に「かっ」と血が上ると自分のコントロールができなくなります。これは、テニスでも同じでした。ミスをすると、自分が許せなくなり、ラケットを投げたりしてしまうのです。
今の私は、試合中も、そして普段の練習も、常に自分を客観的に見ようとしています。試合でミスをしたら、その理由を考えます。今の自分の技術の中で最善の策は何であるかを考えます。最善の策の判断を誤ったり、分かっているはずなのにボールが飛んできた瞬間に異なる判断をしたりすると、自分に腹が立ちますが、同時にそのことを忘れずに次に活かすことを考えます。
このことが、今度は、日常の自分にも影響してきます。仕事上で同じことができるようになるとまでは言い切れませんが、普段から、「客観的に自分を見る」「その時々で自分の持つ最善の選択肢を選ぶ」ことを考えるようになります。それが、また、テニスにもフィードバックします。
私を含む多くのアマチュアプレーヤーは、日常の自分の鍛錬のためにテニスをするのではありません。しかし、では、我々は、何のためにテニスをするのでしょうか…?
ヴィック・ブレイデンは、私でも知っている有名なアメリカのテニスアカデミー運営者の一人です。
技術についての章も面白いですが、第9章の「テニスの心理学」という章を興味深く読んでいます。何かにつけて一番であることがすべてと思われているアメリカのスポーツ界において、この章で、ブレイデンは、誰もが1番になれるわけではないのだから、テニスにはもっと大切なことがあるということを述べています。
その中で、「テニスに現れる個人の人格について」という項目があり、以前書いた、「人格はプレースタイルを超えることができない」という記事を思い出しました。
ブレイデンは書きます。「テニスをすると、おさえつけられていたその人の持っている本来の性格が現れてくる」と。村上龍氏の言うところの「人格はプレースタイルを超えることができない(その人の人格が必ずプレーの中に見えてくる)」ということを、ブレイデンも言っているのです。
ブレイデンは、こんなことも書いています。「前の国連大使であるアンドリュー・ヤング氏は、同僚のテニスコートでの振る舞いを観察して、その人の性格について貴重な情報を得たそうである。」
私は、こんなふうに考えます。
つまり、我々は、テニスを通じて、自分の日常での性格をコントロールできる可能性がある、と。日常では難しくても、テニスによって自分を変えていくのです。
私は、昔から、自分の感情をコントロールすることが苦手でした。特に、自分が追い込まれたり、頭に「かっ」と血が上ると自分のコントロールができなくなります。これは、テニスでも同じでした。ミスをすると、自分が許せなくなり、ラケットを投げたりしてしまうのです。
今の私は、試合中も、そして普段の練習も、常に自分を客観的に見ようとしています。試合でミスをしたら、その理由を考えます。今の自分の技術の中で最善の策は何であるかを考えます。最善の策の判断を誤ったり、分かっているはずなのにボールが飛んできた瞬間に異なる判断をしたりすると、自分に腹が立ちますが、同時にそのことを忘れずに次に活かすことを考えます。
このことが、今度は、日常の自分にも影響してきます。仕事上で同じことができるようになるとまでは言い切れませんが、普段から、「客観的に自分を見る」「その時々で自分の持つ最善の選択肢を選ぶ」ことを考えるようになります。それが、また、テニスにもフィードバックします。
私を含む多くのアマチュアプレーヤーは、日常の自分の鍛錬のためにテニスをするのではありません。しかし、では、我々は、何のためにテニスをするのでしょうか…?
2011年09月30日
伊達公子の引退の理由
佐藤純朗氏の「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」は、この二人の選手の2年間を追いかけたノンフィクションです。当時の伊達・神尾という日本のトップ選手が世界を転戦する姿を、グランドスラム大会を中心に丁寧に追いかけています。本書は、伊達の、そして神尾の引退で結ばれます。しかし、二人の引退までの道は、全く違うものでした。
物語の終わりに、神尾は、右肩痛との戦いの果てに、いよいよ引退を決意します。本人の苦悩の深さは誰も理解することはできないでしょうが、故障が引退の主な理由であったことについては、誰もが納得するでしょう。
一方、伊達の引退の理由は、1年にわたり、世界のビッグトーナメントの場で伊達の取材を続けた佐藤をもってしても、明確にはできなかったようです。
当時、伊達の引退の理由は、スポーツ選手の引退というよりも、有名人の引退として、様々な憶測が飛び交ったように記憶しています。したがって、佐藤本人は決して認めないでしょうが、この著作がその謎解きを期待した読者に向けて出版されたことは、想像に難くありません。(とはいえ、この本を「伊達公子引退の謎」というような品位のないタイトルにしなかったことは、佐藤の譲れない線だったのでしょう。)
テニスプレーヤーは、テニスコートの上で勝負というドラマを演じます。ドラマをじっと見つめるファンとしては、そのプレーの理由を知りたいというのは当然の心理でしょう。その意味では、読者はがっかりしたかもしれません。この作品を最後まで読んでも、伊達の引退の理由について納得できる説明はありませんでした。
引退するかどうかはプレーヤー自身が決めることです。プレーヤーは、コート上の素晴らしいプレーをファンに見せたいと願うでしょうが、引退に至る苦悩や理由を見せたいとは思わないはずです。したがって、私は、伊達の引退の理由について知りたいとは思いません。ただ、神尾ほどの大きな故障がないように見えた伊達が、グラフと対等に戦ったその同じ年に引退することには、やはり違和感を感じました。
この著書で伊達についてのクライマックスは、2箇所あります。二つとも、グラフとの戦いです。一つは有明のフェデレーションカップ、もう一つはウインブルドン準決勝です。実は、私は、後者のウインブルドン準決勝で、センターコートでのあるシーンについて記述されていることを期待して、この本を読んだのです。
それは、ウインブルドン準決勝で、セットオール(1-1)になった後、日没順延になった翌日の、サスペンデッドゲームについてです。といっても、第3セットのゲームそのものではありません。第3セットが開始される前の、いわゆる試合前のウォーミングアップ練習についてです。
試合前の二人のウォーミングアップでのストローク練習が、私の中で、強く印象に残っています。記憶はあいまいなのですが、グラフは、まともに伊達と打ち合おうとしなかったのです。少しラリーが続くと、わざとボールをアウトさせて、伊達にまともな練習をさせなかったのです。
それは、立ち上がりがよくない伊達に対して、少しでも調子にのらせないというグラフの計算だったように、私には見えました。
それは、ルールに反する行為ではありません。しかしそれは、普段のコート上で見せる美しい姿でも、女子ナンバーワン選手の堂々とした姿でもありませんでした。勝つためにであれば、ルールの範囲でどんなことでもする、いやどんなことをしてでも勝つ(勝つ可能性を高める)ことが、トップ選手に課せられた宿命であるのだと、私は知らされたのです。
全くの想像でしかないのですが、伊達は、自分が目指すナンバーワンというポジションが、そういうポジションなのだと知って悲しくなったのではないかと、そんな風に想像するのです。ナンバーワン以外の選手にとってたどり着きたいという願望の対象がナンバーワンなら、ナンバーワンの選手にとって守らねばならないという義務の対象がナンバーワンなのです。願望の対象としてこれほどまでに美しく輝いて見えるその地位は、義務になった瞬間に輝きの姿を失ってしまうこともあるということです。
このことは、著作の中では触れられていませんでした。きっと、私の考えすぎなのでしょう。ただ、私の脳裏からは、あの、試合前のウォームアップのグラフの姿が、今でも消えずに残っているのです。
神尾は、けがを押してトーナメントに参加するために摂取する痛み止めの薬が多すぎた場合に、引退後の日常生活において副作用を及ぼすのではないかと心配していたと、この著書にはあります。ベストのプレーができなくなったこと以外に、この心配も引退の理由の一つであったことは、想像に難くありません。
全く異なる道を通って引退という最終地点にたどり着いた伊達と神尾の二人ですが、著書の中で、一つだけ、全く同じことを言っています。「自分の人生は、テニスだけではない。選手としての人生が終わった後には、それ以外の人生が待っている。その人生も豊かなものにしたい。」勝利することが目標のすべてではない、優勝することが究極の目標とは限らないという二人の考え方が、そこにはあります。
すべての選手には、試合で勝つために、トーナメントで優勝するために戦ってもらいたい。そのために、最高のプレーを演じてもらいたい。しかし、優勝の結果として後に残るのは、「記録」という紙の上の事実だけです。紙になった事実は、すでに誰のものでもありません。もはや、その選手のものですらないのです。
したがって、私は、優勝という事実がいつまでも残る最も大切なことだとは思いません。優勝に価値があるのは、両者が全力を尽くして戦っているその瞬間までです。勝つために全力を尽くすその姿は、確かに美しい。でも、その瞬間が過ぎ去った後に残る大切なこととは、いったい何なのでしょうか?
私は、1980年代の後半に活躍したスロバキアの男子テニス選手であるミロスラフ・メシールが好きです。「好きだった」ではなく、「今でも好き」なのです。すでに引退したプロスポーツ選手について、「(今も)好きだ」というのと「(当時)好きだった」というのはかなり異なると思いませんか?
メシールを好きなのは、彼が強かったからではありません。たとえば、メシールは1988年のソウルオリンピックで優勝していますが、それが、私がメシールを今でも好きな理由ではありません。勝ち負けの結果でプレーヤーを好きになるのではないのです。
メシールが試合の中で見せるプレースタイルは、その戦略は、そしてそのプレーマナーは、私には、彼が時間をかけて作りだしたオリジナル作品のように見えました。単なるスポーツを超えた、メシールの人格を反映した”作品”に、私の目には映ったのです。その”作品”は、今でも私の中で根付き、体の一部となっています。私は、その”作品”が好きになり、そして、その作者であるメシールが好きになったのです。(このことは、以前、「真にマナーの良いプレーヤーは誰か?」という記事の中で書きました。)
選手が作り出す最高のプレーという”作品”の中で、その理由を知りたいというのは、作品に対する敬意からくるものです。選手について知りたいことがあるとすれば、選手の個人的なことではなく、最高のプレーという”作品”の背景にある”モノ・理由”なのだと思います。
この著書が、伊達と神尾という二人のコート上での”作品”と、その背景を浮き上がらせるまでには至らなかったのは、残念でした。私は、「真にマナーの良いプレーヤーは誰か?」に書いたウインブルドンのエドバーグ戦での潔さなど、もし、メシールに会うことがあればぜひ聞いてみたいことが、20年の時を超えて今でもあるのです。
⇒この記事の元記事はこちら
物語の終わりに、神尾は、右肩痛との戦いの果てに、いよいよ引退を決意します。本人の苦悩の深さは誰も理解することはできないでしょうが、故障が引退の主な理由であったことについては、誰もが納得するでしょう。
一方、伊達の引退の理由は、1年にわたり、世界のビッグトーナメントの場で伊達の取材を続けた佐藤をもってしても、明確にはできなかったようです。
当時、伊達の引退の理由は、スポーツ選手の引退というよりも、有名人の引退として、様々な憶測が飛び交ったように記憶しています。したがって、佐藤本人は決して認めないでしょうが、この著作がその謎解きを期待した読者に向けて出版されたことは、想像に難くありません。(とはいえ、この本を「伊達公子引退の謎」というような品位のないタイトルにしなかったことは、佐藤の譲れない線だったのでしょう。)
テニスプレーヤーは、テニスコートの上で勝負というドラマを演じます。ドラマをじっと見つめるファンとしては、そのプレーの理由を知りたいというのは当然の心理でしょう。その意味では、読者はがっかりしたかもしれません。この作品を最後まで読んでも、伊達の引退の理由について納得できる説明はありませんでした。
引退するかどうかはプレーヤー自身が決めることです。プレーヤーは、コート上の素晴らしいプレーをファンに見せたいと願うでしょうが、引退に至る苦悩や理由を見せたいとは思わないはずです。したがって、私は、伊達の引退の理由について知りたいとは思いません。ただ、神尾ほどの大きな故障がないように見えた伊達が、グラフと対等に戦ったその同じ年に引退することには、やはり違和感を感じました。
この著書で伊達についてのクライマックスは、2箇所あります。二つとも、グラフとの戦いです。一つは有明のフェデレーションカップ、もう一つはウインブルドン準決勝です。実は、私は、後者のウインブルドン準決勝で、センターコートでのあるシーンについて記述されていることを期待して、この本を読んだのです。
それは、ウインブルドン準決勝で、セットオール(1-1)になった後、日没順延になった翌日の、サスペンデッドゲームについてです。といっても、第3セットのゲームそのものではありません。第3セットが開始される前の、いわゆる試合前のウォーミングアップ練習についてです。
試合前の二人のウォーミングアップでのストローク練習が、私の中で、強く印象に残っています。記憶はあいまいなのですが、グラフは、まともに伊達と打ち合おうとしなかったのです。少しラリーが続くと、わざとボールをアウトさせて、伊達にまともな練習をさせなかったのです。
それは、立ち上がりがよくない伊達に対して、少しでも調子にのらせないというグラフの計算だったように、私には見えました。
それは、ルールに反する行為ではありません。しかしそれは、普段のコート上で見せる美しい姿でも、女子ナンバーワン選手の堂々とした姿でもありませんでした。勝つためにであれば、ルールの範囲でどんなことでもする、いやどんなことをしてでも勝つ(勝つ可能性を高める)ことが、トップ選手に課せられた宿命であるのだと、私は知らされたのです。
全くの想像でしかないのですが、伊達は、自分が目指すナンバーワンというポジションが、そういうポジションなのだと知って悲しくなったのではないかと、そんな風に想像するのです。ナンバーワン以外の選手にとってたどり着きたいという願望の対象がナンバーワンなら、ナンバーワンの選手にとって守らねばならないという義務の対象がナンバーワンなのです。願望の対象としてこれほどまでに美しく輝いて見えるその地位は、義務になった瞬間に輝きの姿を失ってしまうこともあるということです。
このことは、著作の中では触れられていませんでした。きっと、私の考えすぎなのでしょう。ただ、私の脳裏からは、あの、試合前のウォームアップのグラフの姿が、今でも消えずに残っているのです。
神尾は、けがを押してトーナメントに参加するために摂取する痛み止めの薬が多すぎた場合に、引退後の日常生活において副作用を及ぼすのではないかと心配していたと、この著書にはあります。ベストのプレーができなくなったこと以外に、この心配も引退の理由の一つであったことは、想像に難くありません。
全く異なる道を通って引退という最終地点にたどり着いた伊達と神尾の二人ですが、著書の中で、一つだけ、全く同じことを言っています。「自分の人生は、テニスだけではない。選手としての人生が終わった後には、それ以外の人生が待っている。その人生も豊かなものにしたい。」勝利することが目標のすべてではない、優勝することが究極の目標とは限らないという二人の考え方が、そこにはあります。
すべての選手には、試合で勝つために、トーナメントで優勝するために戦ってもらいたい。そのために、最高のプレーを演じてもらいたい。しかし、優勝の結果として後に残るのは、「記録」という紙の上の事実だけです。紙になった事実は、すでに誰のものでもありません。もはや、その選手のものですらないのです。
したがって、私は、優勝という事実がいつまでも残る最も大切なことだとは思いません。優勝に価値があるのは、両者が全力を尽くして戦っているその瞬間までです。勝つために全力を尽くすその姿は、確かに美しい。でも、その瞬間が過ぎ去った後に残る大切なこととは、いったい何なのでしょうか?
私は、1980年代の後半に活躍したスロバキアの男子テニス選手であるミロスラフ・メシールが好きです。「好きだった」ではなく、「今でも好き」なのです。すでに引退したプロスポーツ選手について、「(今も)好きだ」というのと「(当時)好きだった」というのはかなり異なると思いませんか?
メシールを好きなのは、彼が強かったからではありません。たとえば、メシールは1988年のソウルオリンピックで優勝していますが、それが、私がメシールを今でも好きな理由ではありません。勝ち負けの結果でプレーヤーを好きになるのではないのです。
メシールが試合の中で見せるプレースタイルは、その戦略は、そしてそのプレーマナーは、私には、彼が時間をかけて作りだしたオリジナル作品のように見えました。単なるスポーツを超えた、メシールの人格を反映した”作品”に、私の目には映ったのです。その”作品”は、今でも私の中で根付き、体の一部となっています。私は、その”作品”が好きになり、そして、その作者であるメシールが好きになったのです。(このことは、以前、「真にマナーの良いプレーヤーは誰か?」という記事の中で書きました。)
選手が作り出す最高のプレーという”作品”の中で、その理由を知りたいというのは、作品に対する敬意からくるものです。選手について知りたいことがあるとすれば、選手の個人的なことではなく、最高のプレーという”作品”の背景にある”モノ・理由”なのだと思います。
この著書が、伊達と神尾という二人のコート上での”作品”と、その背景を浮き上がらせるまでには至らなかったのは、残念でした。私は、「真にマナーの良いプレーヤーは誰か?」に書いたウインブルドンのエドバーグ戦での潔さなど、もし、メシールに会うことがあればぜひ聞いてみたいことが、20年の時を超えて今でもあるのです。
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2011年09月29日
李娜(Na Li)は復活できるか?
2011年の全仏オープンで優勝した後の李娜(Na Li)の成績が冴えません。ウインブルドンでも、全米オープンでも、期待に反する早いラウンドで敗退してしまいました。
李娜は復活できるのでしょうか?
自分から投げかけたこの問いですが、私の答えは、無責任にも「分からない」です。年齢的に考えても、絶対にカムバックできるとは簡単には言えないでしょう。
が、私はこう言いたいのです。「別に、カムバックできなくてもいいじゃん。だって、李娜のキャリアは、李娜のものなんだから。」
李娜以外の我々が、彼女のキャリアをどうこう言ってもしょうがないことです。私は、ただ、彼女がどのように彼女のテニスライフを楽しむかが見たいだけです。もし、彼女がテニスを楽しめなくなったとすればそれはとっても不幸なことですし、その時には、いよいよ、キャリアを終わらせるときだろうと思います。しかし、李娜がテニスを楽しめる限りは、私も李娜のテニスを楽しみたいと、そんな風に思うのです。
李娜の全仏オープン決勝で、彼女が背負っているものの大きさを感じ、”ナ・リ(Na Li)の全仏オープン2011”というタイトルでブログに書きました。しかし、李娜自身は、中国が国家的にスポーツ選手を育成する、いわゆるナショナルチームを離れ、プライベートチームを作って戦う道を選びました。インタビューでも「私は、国を背負ってプレーしているのではないわ」と言っています。
一方で、"Can you tell the Chinese don't teach me how to play tennis?"という面白いことを、試合中に審判に対して言ったりもしています。「中国人にはテニスがわからないとでもいうの?」とでも言いたそうで、むしろ自分が中国人選手であることは意識していることが分かります。
これまでの李娜のインタビューをいろいろ調べてみましたが、「面白くて楽しいインタビュー」という表現がぴったりです。「昨晩は隣に寝ている夫(コーチとしてツアーに同行している)のいびきがうるさくて1時間ごとに起こされたから、調子は良くなかったわ!」とか、「お母さんに、自分の試合を見に来てよと言っても、私には私の生活があるからと、絶対に見に来てくれないのよ!」とか、自分や自分の家族のことをネタに、観客を楽しませてくれます。それ以外にも、インタビューで、懸命に面白いことを言おうとしているシーンを、何度も見ました。
李娜は、全豪オープンで準優勝し、全仏オープンで優勝しているトップ選手です。もっと、堂々としても誰も文句は言わないはずです。母国語ではない英語で、自分や自分の家族、身の回りの人を題材にしてジョークを言い、観客を笑わせる必要がない立場です。
李娜の英語は、下手ではないのですが、子どものころからアメリカに渡っている外国人ほどは流暢でははありません。ある程度の年齢になってから、世界を渡り歩くうちにだんだん身についた英語なのでしょう。(だから、時々、文法を間違えていたりもしています。)でも、李娜はそんなことに、気にもしません。自分から、いろいろなジョークを交えて、積極的に話します。
全仏オープン決勝直後のインタビューでも、「試合中、リラックスしているように見えましたが?」という質問に、「いいえ、実は、とても緊張していたの。でも、相手に悟られたくなかったので、ちょっとごまかしていたのよ(I was cheating)」と笑いながらコメントしています。あえて言う必要のない最後の一言に、やはり何か面白いことを言って楽しませたいという李娜の気持ちが見え隠れします。
引っ込み思案な日本人、自己主張の強い中国人、どちらのタイプともかなり違います。多くの人が「アジア人」から想像するイメージとは、李娜はかけ離れています。
ふと、国際会議のバンケット(パーティー)で、日本人と中国人は他国からの参加者に積極的に話しかけず、仲間内で集まってしまうことを思い出しました。李娜だったら、周りを気にせず、どんどん、いろんな人に話しかけていくでしょう。
プロテニス選手でありながら一度大学に戻り勉強をするなど、自分の道は自分で選び、自分のライフプランで歩み続けるのが、李娜です。組織や他人に依存せず、自分で考え、行動し、表現できる選手なのです。
2011年の全仏オープン決勝の解説で神尾米さんも言っていましたが、試合後の李娜は、試合中とは全く異なる、愛らしい表情をします。試合中は、眉間にしわを寄せて、とても厳しい表情なのです。試合が終わるとクールダウンし、試合結果を引きずらないタイプだということが分かります。
これらをすべて考えると、私には、李娜という選手の本質が見えてくるような気がします。
李娜は、オフコートではもちろん、オンコートでも、テニス選手としての自分を外から冷静に、客観的に見る”もう一人の自分”を持っているのだと思います。中国という、世界のテニスシーンではマイナーな国の出身である自分自身を楽しみ、観客がそれをどう見るかを理解しているもう一人の自分がいます。
おそらく、試合に負けた時でさえ、がっかりし、落ち込んでいる自分の姿を外から冷静に見るもうひとりの自分を失ってはないのでしょう。勝った時には、その喜びを観客と一緒に分かち合おうとジョークを飛ばす自分がいるのです。「日本人にはテニスが分からないとでもいうの?」なんて、試合中に審判に言う(しかも、英語で!)日本人選手がいるでしょうか?もう一人の李娜は、試合中ですら、自分が中国人選手であることを楽しんでいるように見えます。
ここまで、自分を客観的に見ることができる選手を、私は、初めて知りました。
テニスはスポーツですから、そんな自分を客観的に見るもうひとりの自分がいても、試合に勝てるとは限りません。メンタルをコントロールできることと、試合をコントロールできることは、必ずしも同じではありません。だから、私は、李娜が世界ランキングでで上位に来るかは分かりません。
でも、李娜を応援したいと思います。李娜がアジア人だからではありません。李娜のインタビューが面白いからでもありません。
李娜を応援することで、李娜と一緒にテニスを楽しむことができるからです。オンコートでも、オフコートでも、試合を楽しみ、勝敗を楽しむもう一人の李娜がいて、きっともう一人の李娜は、勝っても負けても観る者を楽しませてくれると思います。李娜がテニスを楽しみ続ける限りは、そんな李娜のテニスを、私も一緒に楽しみたいと思います。
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李娜は復活できるのでしょうか?
自分から投げかけたこの問いですが、私の答えは、無責任にも「分からない」です。年齢的に考えても、絶対にカムバックできるとは簡単には言えないでしょう。
が、私はこう言いたいのです。「別に、カムバックできなくてもいいじゃん。だって、李娜のキャリアは、李娜のものなんだから。」
李娜以外の我々が、彼女のキャリアをどうこう言ってもしょうがないことです。私は、ただ、彼女がどのように彼女のテニスライフを楽しむかが見たいだけです。もし、彼女がテニスを楽しめなくなったとすればそれはとっても不幸なことですし、その時には、いよいよ、キャリアを終わらせるときだろうと思います。しかし、李娜がテニスを楽しめる限りは、私も李娜のテニスを楽しみたいと、そんな風に思うのです。
李娜の全仏オープン決勝で、彼女が背負っているものの大きさを感じ、”ナ・リ(Na Li)の全仏オープン2011”というタイトルでブログに書きました。しかし、李娜自身は、中国が国家的にスポーツ選手を育成する、いわゆるナショナルチームを離れ、プライベートチームを作って戦う道を選びました。インタビューでも「私は、国を背負ってプレーしているのではないわ」と言っています。
一方で、"Can you tell the Chinese don't teach me how to play tennis?"という面白いことを、試合中に審判に対して言ったりもしています。「中国人にはテニスがわからないとでもいうの?」とでも言いたそうで、むしろ自分が中国人選手であることは意識していることが分かります。
これまでの李娜のインタビューをいろいろ調べてみましたが、「面白くて楽しいインタビュー」という表現がぴったりです。「昨晩は隣に寝ている夫(コーチとしてツアーに同行している)のいびきがうるさくて1時間ごとに起こされたから、調子は良くなかったわ!」とか、「お母さんに、自分の試合を見に来てよと言っても、私には私の生活があるからと、絶対に見に来てくれないのよ!」とか、自分や自分の家族のことをネタに、観客を楽しませてくれます。それ以外にも、インタビューで、懸命に面白いことを言おうとしているシーンを、何度も見ました。
李娜は、全豪オープンで準優勝し、全仏オープンで優勝しているトップ選手です。もっと、堂々としても誰も文句は言わないはずです。母国語ではない英語で、自分や自分の家族、身の回りの人を題材にしてジョークを言い、観客を笑わせる必要がない立場です。
李娜の英語は、下手ではないのですが、子どものころからアメリカに渡っている外国人ほどは流暢でははありません。ある程度の年齢になってから、世界を渡り歩くうちにだんだん身についた英語なのでしょう。(だから、時々、文法を間違えていたりもしています。)でも、李娜はそんなことに、気にもしません。自分から、いろいろなジョークを交えて、積極的に話します。
全仏オープン決勝直後のインタビューでも、「試合中、リラックスしているように見えましたが?」という質問に、「いいえ、実は、とても緊張していたの。でも、相手に悟られたくなかったので、ちょっとごまかしていたのよ(I was cheating)」と笑いながらコメントしています。あえて言う必要のない最後の一言に、やはり何か面白いことを言って楽しませたいという李娜の気持ちが見え隠れします。
引っ込み思案な日本人、自己主張の強い中国人、どちらのタイプともかなり違います。多くの人が「アジア人」から想像するイメージとは、李娜はかけ離れています。
ふと、国際会議のバンケット(パーティー)で、日本人と中国人は他国からの参加者に積極的に話しかけず、仲間内で集まってしまうことを思い出しました。李娜だったら、周りを気にせず、どんどん、いろんな人に話しかけていくでしょう。
プロテニス選手でありながら一度大学に戻り勉強をするなど、自分の道は自分で選び、自分のライフプランで歩み続けるのが、李娜です。組織や他人に依存せず、自分で考え、行動し、表現できる選手なのです。
2011年の全仏オープン決勝の解説で神尾米さんも言っていましたが、試合後の李娜は、試合中とは全く異なる、愛らしい表情をします。試合中は、眉間にしわを寄せて、とても厳しい表情なのです。試合が終わるとクールダウンし、試合結果を引きずらないタイプだということが分かります。
これらをすべて考えると、私には、李娜という選手の本質が見えてくるような気がします。
李娜は、オフコートではもちろん、オンコートでも、テニス選手としての自分を外から冷静に、客観的に見る”もう一人の自分”を持っているのだと思います。中国という、世界のテニスシーンではマイナーな国の出身である自分自身を楽しみ、観客がそれをどう見るかを理解しているもう一人の自分がいます。
おそらく、試合に負けた時でさえ、がっかりし、落ち込んでいる自分の姿を外から冷静に見るもうひとりの自分を失ってはないのでしょう。勝った時には、その喜びを観客と一緒に分かち合おうとジョークを飛ばす自分がいるのです。「日本人にはテニスが分からないとでもいうの?」なんて、試合中に審判に言う(しかも、英語で!)日本人選手がいるでしょうか?もう一人の李娜は、試合中ですら、自分が中国人選手であることを楽しんでいるように見えます。
ここまで、自分を客観的に見ることができる選手を、私は、初めて知りました。
テニスはスポーツですから、そんな自分を客観的に見るもうひとりの自分がいても、試合に勝てるとは限りません。メンタルをコントロールできることと、試合をコントロールできることは、必ずしも同じではありません。だから、私は、李娜が世界ランキングでで上位に来るかは分かりません。
でも、李娜を応援したいと思います。李娜がアジア人だからではありません。李娜のインタビューが面白いからでもありません。
李娜を応援することで、李娜と一緒にテニスを楽しむことができるからです。オンコートでも、オフコートでも、試合を楽しみ、勝敗を楽しむもう一人の李娜がいて、きっともう一人の李娜は、勝っても負けても観る者を楽しませてくれると思います。李娜がテニスを楽しみ続ける限りは、そんな李娜のテニスを、私も一緒に楽しみたいと思います。
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2011年09月28日
世界で通用するテニス(改訂版)
クルム伊達は、日本人としては数少ない、世界の舞台で戦えるプレーヤーです。(でした、というのが正しいかもしれません。私が書いているのは、グラフと戦っていたころの伊達のことです。)クルム伊達のプレーについて、なぜ彼女が世界で通用するのか。
まず、クルム伊達について書く前に、Li Na(李娜)について考えてみたいと思います。二人とも、世界のトップに近い経験を持つアジア人女子プレーヤーです。
Na Liのフレンチオープン2011で書きましたが、私には、全仏オープン決勝のNa Liは、センターコートで、テニス発展途上であるアジア出身という宿命を背中に背負いながら欧米の歴史と戦っているように見えました。
しかし、その後、いろいろ調べてみると、Li Naはオープンでアメリカナイズされた個性(パーソナリティー)の持ち主だということが分かりました。(たとえば、李娜(Na Li)は復活できるか?をご覧ください。)Na Liは、アジアを代表するわけではなく、中国という国を背負うわけでもなく、一人のプレーヤーとして欧米のテニスの歴史に挑んでいたのです。
世界のテニスシーンで、これまでほとんど存在感を示したことがない中国(アジア)の女性プレーヤーが、なぜ、堂々と、グランドスラムの決勝で戦い抜くことができたのか?その理由の一つは、Na Liの良くも悪くも中国人女性らしくないといってもよいパーソナリティーにあるように、私には見えました。
Na Liのパーソナリティーについては、山口奈緒美さんのコラムでも、その明るくオープンなパーソナリティーがレポートされています。特に印象的なのは「アジアの常識を超えたパワーテニスに通じるリーのスケールの大きさを感じる」という部分です。私は、全仏オープン決勝の舞台でのNa Liからは、これまでのアジアのプレーヤーとは違うものを感じました。
これまで見てきたアジアプレーヤーは、大舞台において、どうやって自分をその舞台にマッチさせるかで苦しんできました。Na Liは、違いました。彼女は、試合の中で、自分の立ち位置を探し続けていました。欧米の長いテニスの歴史の中で、中国人として勝者になる絵を描こうとしていたのです。
中国のために戦うということと、中国人として戦うということは、全く意味が違います。この2つの違いが分からないから、いまだに多くのアジア人プレーヤーは、日本人プレーヤーは、世界のひのき舞台に立つことができないでいるのです。
さて、クルム伊達です。私は、プレースタイルも、年齢も、国籍も全く異なるこの二人に、どこか、共通の部分を感じています。
ウィンブルドン2011のクルム伊達対ウィリアムスの試合は、クルム伊達がまだ世界のトップと互角に戦えるということを示した試合だと評されています。しかし、私は、このゲームをテレビで観戦していて、別のことが気になりました。それは、ゲーム中に見せるクルム伊達の日本人女性独特のしぐさです。
たとえば、クルム伊達がミスをした時見せる「あ~」と言いながらしゃがみこむしぐさなどです。このような仕草は、全く、日本女性(女の子?)独特のしぐさです。下手をすると、「トップ選手なんだから、もっと堂々とした姿を見せてほしい」とは思う人もいるのではないでしょうか?
しかし、他人の目を気にすることなく、クルム伊達は、全く屈託なく、日本人っぽいジェスチャーや声、しぐさをコート上で見せます。そして、このことこそが、クルム伊達の強さの秘訣ではないのかと思いました。
日本人プレーヤーが、なぜ、世界のテニスシーンでトップまたはトップクラスになかなか躍り出ることができないのか。なぜ、クルム伊達は、当時、世界No.1のグラフに勝つことができたのに、他の日本人プレーヤーにはできないのか。
コート上での日本人っぽいジェスチャーが強さの理由だとは言いません。しかし、クルム伊達の強さは、他人の意見など気にもせずに、日本人らしさをウインブルドンのコートに平気で持ち込んでくるそのマイペースなスタンスに、理由の一つがあるのだと、私は思います。
日本人らしさを出すことが大切なのではありません。実際、クルム伊達も、よいポイントを取った時には、”Come on!”と英語で言ったりしています。すべてのアクションが日本人的なわけではありません。
日本人であることを、あるがままに、自然にコートに持ち込むこと。それができることが、クルム伊達の強さだと思うのです。テニス発展途上国である中国出身であることを楽しんでいるNa Liと、そこに、共通のものを感じます。
つまるところ、ルールなどなにもないのです。自分の中にしか。日本人の女の子っぽいしぐさも、思わず口に出る英語も、それが自分のモノであれば、他人の目など気にする必要はないのです。
一番大切なことは、自分の方法で自分を表現し、自分の方法で戦うこと。それができるかどうかが、世界の舞台で戦うことができるかどうかの大きな壁だと思います。
もちろん、国際社会(国際的なテニスの大会)においては、守るべきルールやマナーはあります。それらを破ってまで自己を貫くということは、国際社会では許されません。しかし、それ以外については、躊躇することなく、周りの目を気にすることなく、自分のやり方を貫けばよいのです。
一番よくないのは、他人の目を気にして、自分を出し切らない(出し切れない)ことです。案外、そういう選手が多いのではないでしょうか。特に、日本人は、協調ということを大切にすることを、子どものころから教育されています。そのことは素晴らしいことであり、日本の誇るべき社会文化だと思います。ただし、国際スポーツでは、それが裏目に出ることがあるのです。
選手がすべきことは、まずは、国際社会のルールの中でしてはいけないこととしなくてはならないことを分けて理解する。その基本ルールを十分に身に着けたら、今度は、それら以外については、他人の視線を一切気にせずに自分を出し切る。これが、国際的な大会で通用する秘訣だと思います。
選手のコーチや指導者、支援者がすべきことは、まだまだ、たくさんあるようです。
ただし、前提となることはあります。世界で通用するには、周りの視線を意識せずに自分のオリジナルなスタイルを貫くことですが、それは、あくまで、「貫くべき自分のスタイル」を確立できてからの話だということです。自分のスタイルがなくては、貫くモノもありません。
そして、自分の方法を、ゼロから作るのは難しいものです。「学ぶ」という言葉の語源は「真似をする(まねぶ)」ということだそうです。テニスに限らず、多くの技術は、真似をするところから始まるのです。
真似をするというのは、言い換えると、周りの影響を受けるということです。周りに影響を受けながら自分の方法を確立し、周りに影響を受けずに自分の方法を貫く。
この一見すると矛盾することを、あらゆるトップランナーたちは、行ってきました。これはテニスの世界だけの話ではありません。
そのタイミングの切り替わりはどこにあるのでしょうか。
おそらくそれは、オリジナル方法を真似し続けた結果、それが自分の体の一部になった瞬間だと思います。真似をするだけの対象は、おそらく完成度の高いものです。それを自らが取り込んだということは、いわば、自分は、その技術の後継者になったということです。
そこから先は、自分の道です。自分で切り開かねばなりません。
どこで、自分の道を歩き始めるのか。その判断ができるかどうかが、もしかしたら、いわゆる「一流」とう道を歩くかどうかの必要条件なのかもしれません。
まず、クルム伊達について書く前に、Li Na(李娜)について考えてみたいと思います。二人とも、世界のトップに近い経験を持つアジア人女子プレーヤーです。
Na Liのフレンチオープン2011で書きましたが、私には、全仏オープン決勝のNa Liは、センターコートで、テニス発展途上であるアジア出身という宿命を背中に背負いながら欧米の歴史と戦っているように見えました。
しかし、その後、いろいろ調べてみると、Li Naはオープンでアメリカナイズされた個性(パーソナリティー)の持ち主だということが分かりました。(たとえば、李娜(Na Li)は復活できるか?をご覧ください。)Na Liは、アジアを代表するわけではなく、中国という国を背負うわけでもなく、一人のプレーヤーとして欧米のテニスの歴史に挑んでいたのです。
世界のテニスシーンで、これまでほとんど存在感を示したことがない中国(アジア)の女性プレーヤーが、なぜ、堂々と、グランドスラムの決勝で戦い抜くことができたのか?その理由の一つは、Na Liの良くも悪くも中国人女性らしくないといってもよいパーソナリティーにあるように、私には見えました。
Na Liのパーソナリティーについては、山口奈緒美さんのコラムでも、その明るくオープンなパーソナリティーがレポートされています。特に印象的なのは「アジアの常識を超えたパワーテニスに通じるリーのスケールの大きさを感じる」という部分です。私は、全仏オープン決勝の舞台でのNa Liからは、これまでのアジアのプレーヤーとは違うものを感じました。
これまで見てきたアジアプレーヤーは、大舞台において、どうやって自分をその舞台にマッチさせるかで苦しんできました。Na Liは、違いました。彼女は、試合の中で、自分の立ち位置を探し続けていました。欧米の長いテニスの歴史の中で、中国人として勝者になる絵を描こうとしていたのです。
中国のために戦うということと、中国人として戦うということは、全く意味が違います。この2つの違いが分からないから、いまだに多くのアジア人プレーヤーは、日本人プレーヤーは、世界のひのき舞台に立つことができないでいるのです。
さて、クルム伊達です。私は、プレースタイルも、年齢も、国籍も全く異なるこの二人に、どこか、共通の部分を感じています。
ウィンブルドン2011のクルム伊達対ウィリアムスの試合は、クルム伊達がまだ世界のトップと互角に戦えるということを示した試合だと評されています。しかし、私は、このゲームをテレビで観戦していて、別のことが気になりました。それは、ゲーム中に見せるクルム伊達の日本人女性独特のしぐさです。
たとえば、クルム伊達がミスをした時見せる「あ~」と言いながらしゃがみこむしぐさなどです。このような仕草は、全く、日本女性(女の子?)独特のしぐさです。下手をすると、「トップ選手なんだから、もっと堂々とした姿を見せてほしい」とは思う人もいるのではないでしょうか?
しかし、他人の目を気にすることなく、クルム伊達は、全く屈託なく、日本人っぽいジェスチャーや声、しぐさをコート上で見せます。そして、このことこそが、クルム伊達の強さの秘訣ではないのかと思いました。
日本人プレーヤーが、なぜ、世界のテニスシーンでトップまたはトップクラスになかなか躍り出ることができないのか。なぜ、クルム伊達は、当時、世界No.1のグラフに勝つことができたのに、他の日本人プレーヤーにはできないのか。
コート上での日本人っぽいジェスチャーが強さの理由だとは言いません。しかし、クルム伊達の強さは、他人の意見など気にもせずに、日本人らしさをウインブルドンのコートに平気で持ち込んでくるそのマイペースなスタンスに、理由の一つがあるのだと、私は思います。
日本人らしさを出すことが大切なのではありません。実際、クルム伊達も、よいポイントを取った時には、”Come on!”と英語で言ったりしています。すべてのアクションが日本人的なわけではありません。
日本人であることを、あるがままに、自然にコートに持ち込むこと。それができることが、クルム伊達の強さだと思うのです。テニス発展途上国である中国出身であることを楽しんでいるNa Liと、そこに、共通のものを感じます。
つまるところ、ルールなどなにもないのです。自分の中にしか。日本人の女の子っぽいしぐさも、思わず口に出る英語も、それが自分のモノであれば、他人の目など気にする必要はないのです。
一番大切なことは、自分の方法で自分を表現し、自分の方法で戦うこと。それができるかどうかが、世界の舞台で戦うことができるかどうかの大きな壁だと思います。
もちろん、国際社会(国際的なテニスの大会)においては、守るべきルールやマナーはあります。それらを破ってまで自己を貫くということは、国際社会では許されません。しかし、それ以外については、躊躇することなく、周りの目を気にすることなく、自分のやり方を貫けばよいのです。
一番よくないのは、他人の目を気にして、自分を出し切らない(出し切れない)ことです。案外、そういう選手が多いのではないでしょうか。特に、日本人は、協調ということを大切にすることを、子どものころから教育されています。そのことは素晴らしいことであり、日本の誇るべき社会文化だと思います。ただし、国際スポーツでは、それが裏目に出ることがあるのです。
選手がすべきことは、まずは、国際社会のルールの中でしてはいけないこととしなくてはならないことを分けて理解する。その基本ルールを十分に身に着けたら、今度は、それら以外については、他人の視線を一切気にせずに自分を出し切る。これが、国際的な大会で通用する秘訣だと思います。
選手のコーチや指導者、支援者がすべきことは、まだまだ、たくさんあるようです。
ただし、前提となることはあります。世界で通用するには、周りの視線を意識せずに自分のオリジナルなスタイルを貫くことですが、それは、あくまで、「貫くべき自分のスタイル」を確立できてからの話だということです。自分のスタイルがなくては、貫くモノもありません。
そして、自分の方法を、ゼロから作るのは難しいものです。「学ぶ」という言葉の語源は「真似をする(まねぶ)」ということだそうです。テニスに限らず、多くの技術は、真似をするところから始まるのです。
真似をするというのは、言い換えると、周りの影響を受けるということです。周りに影響を受けながら自分の方法を確立し、周りに影響を受けずに自分の方法を貫く。
この一見すると矛盾することを、あらゆるトップランナーたちは、行ってきました。これはテニスの世界だけの話ではありません。
そのタイミングの切り替わりはどこにあるのでしょうか。
おそらくそれは、オリジナル方法を真似し続けた結果、それが自分の体の一部になった瞬間だと思います。真似をするだけの対象は、おそらく完成度の高いものです。それを自らが取り込んだということは、いわば、自分は、その技術の後継者になったということです。
そこから先は、自分の道です。自分で切り開かねばなりません。
どこで、自分の道を歩き始めるのか。その判断ができるかどうかが、もしかしたら、いわゆる「一流」とう道を歩くかどうかの必要条件なのかもしれません。
2011年09月23日
テニス日記更新しました
テニス日記を更新しました。レベルは中~中上級ですが34勝21敗になりました。勉強することはいろいろあります。勉強すれば、少しずつ、勝率は上がるものだと(まじめに)思っている今日この頃です。
2011年09月20日
テニス日記(シングルス)
少し前から、自分のテニスの試合の記録(日記)をつけはじめました。主として、シングルスゲームの記録を取っています。
他人のテニスのゲームの日記を読んで面白いのかどうかわかりませんが、何かの参考になるかもしれませんので、もし興味があればご覧ください。
⇒テニス日記はこちら
他人のテニスのゲームの日記を読んで面白いのかどうかわかりませんが、何かの参考になるかもしれませんので、もし興味があればご覧ください。
⇒テニス日記はこちら
2011年08月21日
ナダルの初戦敗退
心配していたのですが、WOWOW Tennis Onlieで、ナダルが3年3か月ぶりの初戦敗退(記事はこちら)というニュースが入ってきました。
私はプロのテニスプレーヤーではないですが、トッププロにとって、モチベーションの維持がどれほど重要であるかは、想像がつきます。
私は、ウインブルドン2011の男子決勝戦の直前に書いたブログ「ウィンブルドン2011男子決勝戦を前に ナダル-ジョコビッチ」で、この決勝戦後のナダルが心配でした。燃え尽きてしまうのではないか…と。
ナダルがこのままずるずると引き下がるとは思えないのですが、一方で、どうしてもジョコビッチに勝てない(すでに、今年に入って一度も勝てていない)とすると、そのモチベーションをどう維持するのかが心配なのです。
全米オープンに向けた、そして全米オープンでのナダルに注目したいと思います。
私はプロのテニスプレーヤーではないですが、トッププロにとって、モチベーションの維持がどれほど重要であるかは、想像がつきます。
私は、ウインブルドン2011の男子決勝戦の直前に書いたブログ「ウィンブルドン2011男子決勝戦を前に ナダル-ジョコビッチ」で、この決勝戦後のナダルが心配でした。燃え尽きてしまうのではないか…と。
ナダルがこのままずるずると引き下がるとは思えないのですが、一方で、どうしてもジョコビッチに勝てない(すでに、今年に入って一度も勝てていない)とすると、そのモチベーションをどう維持するのかが心配なのです。
全米オープンに向けた、そして全米オープンでのナダルに注目したいと思います。
2011年08月20日
なでしこJAPANから学ぶべきこと(デ杯とフェド杯)
昨日(正確には一昨日)、女子のサッカーワールドカップで、日本が優勝しました。サッカーについては、日本は、おそらく(男子はもちろん女子も)欧米から遅れている競技だったと思いますので、これは、本当に快挙と言ってよいでしょう。
私は、今回の試合(アメリカとの決勝戦)内容についてはダイジェストで見ただけなので詳しくは分かりませんが、かなりの僅差での勝利だったようです。したがって、今後、日本女子チームがトップに君臨するというような強さというよりも、どちらかというと、この大会で、神がかり的な強さで優勝したような印象を受けました。(もちろん、それが、優勝の価値を少しも下げるものではないのですが。)
ふと、テレビや新聞を見ても、とても大きな扱いで、少し前のオリンピックで、女子ソフトボールが優勝した時のことを思い出しました。あの時も、メディアはかなりの扱いだったように記憶しています。
さて、ここからが本題です。
女子ソフトボールも、女子サッカーも、長い歴史とは言えない中で世界の頂点を極めたのに、なぜ、(女子)テニスはそうならないのか。
佐藤純朗著「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」というノンフィクション」の中で、著者は、かなりのページを割いて、当時のフェデレーションカップの運営についての不満を書いています。当時のフェデレーションカップは、伊達・沢松(神尾ですら試合に出場できない!)という相当な布陣を敷きながら、しかし、勝利することを最優先した運営ができていなかったというのです。
私は、事の真偽を知る立場にいませんので正しく判断することはできないのですが、しかし、日本の女子(おそらく男子も)テニスが世界に通用することを目指した運営体制になっていないだろうなということは、容易に想像がつきます。そう感じる理由は簡単で、実際に日本は、男子はもちろん、女子も、ナショナルチームが世界の頂点を極めることができていないからです。(男子はデビスカップチーム、女子はフェデレーションカップチームです。)頂点を極めるどころか、ワールドグループに入ることすら、ほとんどできていない現状です。
世界のスポーツにおいて、ナショナルチームの強化体制の成果が出やすいのは、女子です。これは、ほとんどの競技において、女子の方が男子よりも競技人口数が少ない(選手層が薄い)からです。もちろん、そのことが、女子競技の方が男子競技よりも劣るということを意味しているわけではありません。ただ、協会が本腰でナショナルチームの強化策を打てば、少なくとも、女子については、世界での戦いにおいてもその効果は出やすいはずなのです。しかし、ソフトボールやサッカーと比較しても浅いとは思えない歴史のあるテニスでは、その強化策は、残念ながら機能しているようには見えません。
この書籍の指摘だけではありません。フェデレーションカップではないですが、今年のデビスカップについて、山口奈緒美さんが「デ杯で日本勝利も、手放しで喜べない現状」という記事を書いています。これは、ナショナルチーム強化の話ではないですが、この文章からも、会場選択がベストの解になっていない(日本チームが勝つことが最優先になっているようには見えない)という日本のテニス界の現状が、透けて見えるような気がします。
この現状をどのようにすれば改善できるのか。
これについても、私がそれを述べる立場にはありません。ただ、部外者として無責任にコメントをするならば、とても大切なことを一つだけ、指摘したいと思います。
それは、現役を終えた選手が、現場を離れて、経営側・運営側に参加することです。男女のテニス協会だけではなく、スポンサー、企画、代理店、経営…など、あらゆる方面に、現役経験者が入り込んでいくことです。特に、世界を知っているプレーヤーの仕事は重要です。
プレーヤーは、現場が好きです。引退しても、現場が好きです。コーチになったり、テレビや雑誌の解説者になったりの方が、きっと、楽しいはずです。
しかし、それでは、ナショナルチームの強化は難しいのです。現場をよく知っている者が、現場をあきらめてでもコミッションする側に入り込み、プランニングする側に入り込む。代理店や資金運営を含めた経営側に入り込む。これらは、スポーツ選手にとっては楽しい仕事ではないでしょう。しかし、それを行わない限り、日本のテニスのナショナルチームが世界のひのき舞台に出ていくことは難しいと思います。
野球やサッカーと比べて、テニスの場合は経営規模が小さいから…というのは、言い訳にはなりません。女子ソフトボールも、女子サッカーも、ビジネスとして成立するだけのパイがあったわけではないのですから…。
このことについては、きっとまた、どこかで、さらに詳しく書く機会があると思います。
私は、今回の試合(アメリカとの決勝戦)内容についてはダイジェストで見ただけなので詳しくは分かりませんが、かなりの僅差での勝利だったようです。したがって、今後、日本女子チームがトップに君臨するというような強さというよりも、どちらかというと、この大会で、神がかり的な強さで優勝したような印象を受けました。(もちろん、それが、優勝の価値を少しも下げるものではないのですが。)
ふと、テレビや新聞を見ても、とても大きな扱いで、少し前のオリンピックで、女子ソフトボールが優勝した時のことを思い出しました。あの時も、メディアはかなりの扱いだったように記憶しています。
さて、ここからが本題です。
女子ソフトボールも、女子サッカーも、長い歴史とは言えない中で世界の頂点を極めたのに、なぜ、(女子)テニスはそうならないのか。
佐藤純朗著「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」というノンフィクション」の中で、著者は、かなりのページを割いて、当時のフェデレーションカップの運営についての不満を書いています。当時のフェデレーションカップは、伊達・沢松(神尾ですら試合に出場できない!)という相当な布陣を敷きながら、しかし、勝利することを最優先した運営ができていなかったというのです。
私は、事の真偽を知る立場にいませんので正しく判断することはできないのですが、しかし、日本の女子(おそらく男子も)テニスが世界に通用することを目指した運営体制になっていないだろうなということは、容易に想像がつきます。そう感じる理由は簡単で、実際に日本は、男子はもちろん、女子も、ナショナルチームが世界の頂点を極めることができていないからです。(男子はデビスカップチーム、女子はフェデレーションカップチームです。)頂点を極めるどころか、ワールドグループに入ることすら、ほとんどできていない現状です。
世界のスポーツにおいて、ナショナルチームの強化体制の成果が出やすいのは、女子です。これは、ほとんどの競技において、女子の方が男子よりも競技人口数が少ない(選手層が薄い)からです。もちろん、そのことが、女子競技の方が男子競技よりも劣るということを意味しているわけではありません。ただ、協会が本腰でナショナルチームの強化策を打てば、少なくとも、女子については、世界での戦いにおいてもその効果は出やすいはずなのです。しかし、ソフトボールやサッカーと比較しても浅いとは思えない歴史のあるテニスでは、その強化策は、残念ながら機能しているようには見えません。
この書籍の指摘だけではありません。フェデレーションカップではないですが、今年のデビスカップについて、山口奈緒美さんが「デ杯で日本勝利も、手放しで喜べない現状」という記事を書いています。これは、ナショナルチーム強化の話ではないですが、この文章からも、会場選択がベストの解になっていない(日本チームが勝つことが最優先になっているようには見えない)という日本のテニス界の現状が、透けて見えるような気がします。
この現状をどのようにすれば改善できるのか。
これについても、私がそれを述べる立場にはありません。ただ、部外者として無責任にコメントをするならば、とても大切なことを一つだけ、指摘したいと思います。
それは、現役を終えた選手が、現場を離れて、経営側・運営側に参加することです。男女のテニス協会だけではなく、スポンサー、企画、代理店、経営…など、あらゆる方面に、現役経験者が入り込んでいくことです。特に、世界を知っているプレーヤーの仕事は重要です。
プレーヤーは、現場が好きです。引退しても、現場が好きです。コーチになったり、テレビや雑誌の解説者になったりの方が、きっと、楽しいはずです。
しかし、それでは、ナショナルチームの強化は難しいのです。現場をよく知っている者が、現場をあきらめてでもコミッションする側に入り込み、プランニングする側に入り込む。代理店や資金運営を含めた経営側に入り込む。これらは、スポーツ選手にとっては楽しい仕事ではないでしょう。しかし、それを行わない限り、日本のテニスのナショナルチームが世界のひのき舞台に出ていくことは難しいと思います。
野球やサッカーと比べて、テニスの場合は経営規模が小さいから…というのは、言い訳にはなりません。女子ソフトボールも、女子サッカーも、ビジネスとして成立するだけのパイがあったわけではないのですから…。
このことについては、きっとまた、どこかで、さらに詳しく書く機会があると思います。
2011年08月09日
感動をありがとう
オリンピックで日本選手が優勝した時などに、よく、「感動をありがとう」という言葉を聞きます。
正直に言うと、この言葉は、私にはかなり違和感がある言葉です。
でも、どうしてこんなに違和感を感じるのか…。考えても、よく分からないのです。
もちろん、コートの上で素晴らしいプレーを見ると感動します。しかし、そこにあるのは、私に見せるためのプレーではありません。(プレーヤーは、私のことは知らないのですから。)
そこにあるのは、プレーヤーの自己表現としてのプレーなのです。私との間にあるのは、選手から私への片方向のコミュニケーションです。私から選手への感動を伝える方向は、本来はないのです。(もちろん、最近のインターネットコミュニケーションでは、ファンから選手方向へのコミュニケーションも可能にはなりましたが。)
選手は自分のプレーに満足し、観客はそれに感動して満足します。それでよいのだと思っています。そこにあるのは、ありがとうと言う感謝の対象とはどこか違うように思うのです。
「李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦」において、私は、李娜が伝統という大きな見えない敵と戦っている様子を見守りました。優勝の瞬間には、感動という言葉がぴったりの感情に包まれました。
その時ですら、「李娜、感動をありがとう」とは思わなかったのです。
選手とファンの間にあるモノは、一体なんなのでしょうか?今回は、答えにたどり着けませんでした。もう少し、考えてみようと思います。
正直に言うと、この言葉は、私にはかなり違和感がある言葉です。
でも、どうしてこんなに違和感を感じるのか…。考えても、よく分からないのです。
もちろん、コートの上で素晴らしいプレーを見ると感動します。しかし、そこにあるのは、私に見せるためのプレーではありません。(プレーヤーは、私のことは知らないのですから。)
そこにあるのは、プレーヤーの自己表現としてのプレーなのです。私との間にあるのは、選手から私への片方向のコミュニケーションです。私から選手への感動を伝える方向は、本来はないのです。(もちろん、最近のインターネットコミュニケーションでは、ファンから選手方向へのコミュニケーションも可能にはなりましたが。)
選手は自分のプレーに満足し、観客はそれに感動して満足します。それでよいのだと思っています。そこにあるのは、ありがとうと言う感謝の対象とはどこか違うように思うのです。
「李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝戦」において、私は、李娜が伝統という大きな見えない敵と戦っている様子を見守りました。優勝の瞬間には、感動という言葉がぴったりの感情に包まれました。
その時ですら、「李娜、感動をありがとう」とは思わなかったのです。
選手とファンの間にあるモノは、一体なんなのでしょうか?今回は、答えにたどり着けませんでした。もう少し、考えてみようと思います。
2011年08月08日
脳内イメージが上達の秘訣
脳内イメージというのは、おそらく、正しい日本語ではないでしょう。でも私は、気にっている言葉です。テニス技術を説明するときに、便利な言葉だからです。
「自分自身のコーチになろう」で書きましたが、私は、アマチュアであっても、自分のプレーをビデオで撮影して後で確認する方法は、有効だと思っています。いえ、有効というだけではなく、アマチュアスポーツの楽しみ方として、理想的な方法だと思っています。
「今日は調子がよかった」「あのパッシングショット一発が気持ちよかった」というような、その日その場限りの楽しみ方では、技術はなかなか上達しません。映像で自分のプレーを詳細に分析し、一歩一歩上達していくには、自分が自分のコーチになるのが一番です。上達のスピードに制約のないのは、アマチュアのだいご味です。
ところで、ビデオで自分のフォームを撮影してみて驚くは、自分の中のイメージと実際の自分が違っていることです。(想像しているより太っていたとか、そういう意味ではありません(笑)。)
たとえば、私の場合、ストロークで、自分ではラケット面を地面に垂直になるように振っているつもりなのですが、映像で見ると、面がやや上を向いている場合がありました。別項でも書きますが、フォアハンドで右脇(私は右利きです)が意外に開いていて驚いたこともあります。
ビデオは、実際のコーチと違い、その場でアドバイスをしてくれません。自宅に帰って、映像を見て、自分の中のイメージと比較します。私の場合、オンコートでの自分の頭の中のイメージ(脳内イメージ)と実際の映像の中のプレーが、往々にして一致しません。一致しない方が多いぐらいです。
そして、その差分を頭の中で修正して、また、次のコート上でそれを試みるわけです。
時間がかかりますが、ゆっくり、ゆっくりと、自分のペースで自分のフォームやプレースタイルを作っていく。これが、私のやり方です。
(この方法を取り始めて、もう、2年がたちました。2年前のビデオを見ると、今とは全然違うフォームで打っています。変化はゆっくりですが、それなりに、効果があるということですね。)
脳内イメージは、大切です。それだけが、フォームを作り上げる手段です。
たとえば、「ラケット面が上を向く」という癖を修正したい場合。「面が上に向かないようにする」というのは、案外、難しいものです。ラケットは常に動きますし、面の向きも、自由度がありますから、この方向という風に固定することは容易ではありません。
そこで、脳内イメージを作ります。たとえば、「ラケットのヘッドを常にネット方向に向ける」というようなイメージです。実際、ストローク中にずっとラケットヘッドがネット方向を向くことはありません。しかし、私の場合、このように意識することで、ラケット面が開かなくなりました。(これは、また、別項で説明します。)
ただし、このような脳内イメージは、個人によって異なります。私の脳内イメージ(たとえば、「ラケットヘッドをネット側に向ける」)が、他のプレーヤーにも有効であるとは限りません。(むしろ、おそらく、イメージは人によって全く異なるでしょう。)
したがって、脳内イメージについて具体的に書く場合は、同じイメージを他の人と共有できるかどうかに気を付けてなくてはなりません。また、誰かの書く脳内イメージを読む場合も、注意をして読んでいただきたいと思います。
よい脳内イメージは、誰もが同じイメージを想起できるような言葉で表されるものです。私は、あまり、得意ではないのですが…。
⇒この記事の元記事はこちらをご覧ください。
「自分自身のコーチになろう」で書きましたが、私は、アマチュアであっても、自分のプレーをビデオで撮影して後で確認する方法は、有効だと思っています。いえ、有効というだけではなく、アマチュアスポーツの楽しみ方として、理想的な方法だと思っています。
「今日は調子がよかった」「あのパッシングショット一発が気持ちよかった」というような、その日その場限りの楽しみ方では、技術はなかなか上達しません。映像で自分のプレーを詳細に分析し、一歩一歩上達していくには、自分が自分のコーチになるのが一番です。上達のスピードに制約のないのは、アマチュアのだいご味です。
ところで、ビデオで自分のフォームを撮影してみて驚くは、自分の中のイメージと実際の自分が違っていることです。(想像しているより太っていたとか、そういう意味ではありません(笑)。)
たとえば、私の場合、ストロークで、自分ではラケット面を地面に垂直になるように振っているつもりなのですが、映像で見ると、面がやや上を向いている場合がありました。別項でも書きますが、フォアハンドで右脇(私は右利きです)が意外に開いていて驚いたこともあります。
ビデオは、実際のコーチと違い、その場でアドバイスをしてくれません。自宅に帰って、映像を見て、自分の中のイメージと比較します。私の場合、オンコートでの自分の頭の中のイメージ(脳内イメージ)と実際の映像の中のプレーが、往々にして一致しません。一致しない方が多いぐらいです。
そして、その差分を頭の中で修正して、また、次のコート上でそれを試みるわけです。
時間がかかりますが、ゆっくり、ゆっくりと、自分のペースで自分のフォームやプレースタイルを作っていく。これが、私のやり方です。
(この方法を取り始めて、もう、2年がたちました。2年前のビデオを見ると、今とは全然違うフォームで打っています。変化はゆっくりですが、それなりに、効果があるということですね。)
脳内イメージは、大切です。それだけが、フォームを作り上げる手段です。
たとえば、「ラケット面が上を向く」という癖を修正したい場合。「面が上に向かないようにする」というのは、案外、難しいものです。ラケットは常に動きますし、面の向きも、自由度がありますから、この方向という風に固定することは容易ではありません。
そこで、脳内イメージを作ります。たとえば、「ラケットのヘッドを常にネット方向に向ける」というようなイメージです。実際、ストローク中にずっとラケットヘッドがネット方向を向くことはありません。しかし、私の場合、このように意識することで、ラケット面が開かなくなりました。(これは、また、別項で説明します。)
ただし、このような脳内イメージは、個人によって異なります。私の脳内イメージ(たとえば、「ラケットヘッドをネット側に向ける」)が、他のプレーヤーにも有効であるとは限りません。(むしろ、おそらく、イメージは人によって全く異なるでしょう。)
したがって、脳内イメージについて具体的に書く場合は、同じイメージを他の人と共有できるかどうかに気を付けてなくてはなりません。また、誰かの書く脳内イメージを読む場合も、注意をして読んでいただきたいと思います。
よい脳内イメージは、誰もが同じイメージを想起できるような言葉で表されるものです。私は、あまり、得意ではないのですが…。
⇒この記事の元記事はこちらをご覧ください。
2011年08月07日
自分自身のコーチになろう!
「プロとアマチュアの違い」において、アマチュアの利点、つまり、アマチュアはじっくり時間をかけて自分の技術を追求できることの利点を書きました。
アマチュアは、テニスで収入があるわけではありませんので、専属のコーチを雇うことはできません。自分の技術向上は、自分自身だけが頼みです。ならば、自分自身が自分のコーチになればよいとは思いませんか?自分が自分のコーチングをするのであれば、たっぷり時間があります。選手たる自分は、他人のアドバイスにはなかなか耳を向けない人であっても、自分がコーチであれば、コーチの言うことを素直に聞くでしょう(笑)。
さて、自分自身が自分のコーチになるためには、具体的には、何をすればよいか。
まずは、自分の目指すテニススタイルを明確にすることだと思います。もちろん、目指すテニスがない(自分に一番適したテニスを目指す)というがだめということではありません。しかし、折角、アマチュアなのです。勝ち負けに関係なく自分の好きなテニスを目指すことを許されるのがアマチュアです。この機会に、まずは、目指すテニススタイルを考えてみてはどうでしょうか?私がメシールにあこがれたように。
「人格はプレースタイルを超えることができない。」でも書きましたが、かつて、作家の村上龍氏はこんなことを書いています。「テニスプレーヤーの人格は、そのプレースタイルを超えることができない。」
自分のテニスが、自分を表現する手段になることは、なんと素晴らしいことだと思いませんか?テニスを自己表現として考えることができるのは、テニスという協議の素晴らしいところだと思います。プロフェッショナルは、意識しなくても、みんな自然にそうなるのでしょうが、アマチュアだって、テニスを通じて自己表現、自己実現を目指してもよいのです。
私の場合は、目指すテニスがはっきりしている(メシール)ので、この点で悩むことは全くありませんでした。
と言っても、かくいう私も、実は、メシールのあらゆるプレーをコピーしているわけではありません。フォアハンドとバックハンドストロークとフットワーク(ステップ)は完璧なコピーを目指していますが、一方で、ボレーやサーブについてはあまり参考にしたことがありません。特に、メシールのボレーは、あまり上手ではないというか、私には魅力的ではありませんので…。
さて、ここからが本番です。自分で目指すテニススタイル(プロのコピーでもよいですし、頭の中のイメージでもよいと思います)が決まったら、次は、自分のコーチをしましょう。
自分をコーチする際に便利なモノが、ビデオカメラです。いえ、ビデオカメラは、自己コーチングでは必須の道具と言えるかもしれません。自分のプレーは、自分で見ることができないからです。
最近のビデオカメラは、低価格で高解像度です。ビデオカメラを用意して、自分自身を撮影するのです。撮影した映像は、スローモーション再生もできますので、フォームやプレーを、時間をかけてじっくりと分析できます。私も、HD(ハイビジョン)タイプの小型のビデオカメラ(と三脚)を使っています。
自分でボールを打っていますので、いつうまく打てて、いつうまく打てなかったかは、自分自身でよく分かっているはずです。自分のプレーを何度も何度も繰り返し見ることで、どこをどう修正すればよいか、だんだん分かってくるはずです。
「テニスプレーヤーの人格は、そのプレーを超えることができない」というのは、比喩的表現ですが、テニスの本質を表していると思います。そして、人のキャラクターが人それぞれ多彩であるように、テニススタイルの選択肢も、他のスポーツと比較しても多彩です。スピン系を中心に戦う選手も、フラットドライブ系中心の選手もいます。バックハンドに至っては、両手で打っても、片手で打ってもよいのです。基本的なプレースタイルにこれだけのバラエティーがあるスポーツも珍しいのではないでしょうか。
このことは、言い換えると、それだけ選択肢の幅が広いわけで、その結果、プレースタイルが自分自身を反映しやすいスポーツでもあるわけです。攻めたい性格の方は攻撃的なプレースタイルを、守りたい性格の方は安定でミスの少ないスタイルを。そして、私のように、美しいテニスを求める人は美しいテニススタイルを…。
自分のプレーをビデオで穴が開くぐらいに何度も見て、同時に、自分が目指したいテニス(自分が表現したい自分)を何度も何度も考え抜くこと。あなたが(自分の)コーチ業をスタートするのであれば、まずは、そこから始めるのがよいと思います。
⇒この記事の元記事はこちらです。
アマチュアは、テニスで収入があるわけではありませんので、専属のコーチを雇うことはできません。自分の技術向上は、自分自身だけが頼みです。ならば、自分自身が自分のコーチになればよいとは思いませんか?自分が自分のコーチングをするのであれば、たっぷり時間があります。選手たる自分は、他人のアドバイスにはなかなか耳を向けない人であっても、自分がコーチであれば、コーチの言うことを素直に聞くでしょう(笑)。
さて、自分自身が自分のコーチになるためには、具体的には、何をすればよいか。
まずは、自分の目指すテニススタイルを明確にすることだと思います。もちろん、目指すテニスがない(自分に一番適したテニスを目指す)というがだめということではありません。しかし、折角、アマチュアなのです。勝ち負けに関係なく自分の好きなテニスを目指すことを許されるのがアマチュアです。この機会に、まずは、目指すテニススタイルを考えてみてはどうでしょうか?私がメシールにあこがれたように。
「人格はプレースタイルを超えることができない。」でも書きましたが、かつて、作家の村上龍氏はこんなことを書いています。「テニスプレーヤーの人格は、そのプレースタイルを超えることができない。」
自分のテニスが、自分を表現する手段になることは、なんと素晴らしいことだと思いませんか?テニスを自己表現として考えることができるのは、テニスという協議の素晴らしいところだと思います。プロフェッショナルは、意識しなくても、みんな自然にそうなるのでしょうが、アマチュアだって、テニスを通じて自己表現、自己実現を目指してもよいのです。
私の場合は、目指すテニスがはっきりしている(メシール)ので、この点で悩むことは全くありませんでした。
と言っても、かくいう私も、実は、メシールのあらゆるプレーをコピーしているわけではありません。フォアハンドとバックハンドストロークとフットワーク(ステップ)は完璧なコピーを目指していますが、一方で、ボレーやサーブについてはあまり参考にしたことがありません。特に、メシールのボレーは、あまり上手ではないというか、私には魅力的ではありませんので…。
さて、ここからが本番です。自分で目指すテニススタイル(プロのコピーでもよいですし、頭の中のイメージでもよいと思います)が決まったら、次は、自分のコーチをしましょう。
自分をコーチする際に便利なモノが、ビデオカメラです。いえ、ビデオカメラは、自己コーチングでは必須の道具と言えるかもしれません。自分のプレーは、自分で見ることができないからです。
最近のビデオカメラは、低価格で高解像度です。ビデオカメラを用意して、自分自身を撮影するのです。撮影した映像は、スローモーション再生もできますので、フォームやプレーを、時間をかけてじっくりと分析できます。私も、HD(ハイビジョン)タイプの小型のビデオカメラ(と三脚)を使っています。
自分でボールを打っていますので、いつうまく打てて、いつうまく打てなかったかは、自分自身でよく分かっているはずです。自分のプレーを何度も何度も繰り返し見ることで、どこをどう修正すればよいか、だんだん分かってくるはずです。
「テニスプレーヤーの人格は、そのプレーを超えることができない」というのは、比喩的表現ですが、テニスの本質を表していると思います。そして、人のキャラクターが人それぞれ多彩であるように、テニススタイルの選択肢も、他のスポーツと比較しても多彩です。スピン系を中心に戦う選手も、フラットドライブ系中心の選手もいます。バックハンドに至っては、両手で打っても、片手で打ってもよいのです。基本的なプレースタイルにこれだけのバラエティーがあるスポーツも珍しいのではないでしょうか。
このことは、言い換えると、それだけ選択肢の幅が広いわけで、その結果、プレースタイルが自分自身を反映しやすいスポーツでもあるわけです。攻めたい性格の方は攻撃的なプレースタイルを、守りたい性格の方は安定でミスの少ないスタイルを。そして、私のように、美しいテニスを求める人は美しいテニススタイルを…。
自分のプレーをビデオで穴が開くぐらいに何度も見て、同時に、自分が目指したいテニス(自分が表現したい自分)を何度も何度も考え抜くこと。あなたが(自分の)コーチ業をスタートするのであれば、まずは、そこから始めるのがよいと思います。
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2011年08月06日
プロとアマチュアの違い(アマチュアの楽しさ)
プロフェッショナルとアマチュアの違いとは何でしょうか。
高い技術を持つのがプロで、そのレベルにまで達しないのがアマチュア。テニスで飯が食えるのがプロで、別に職業がなくてはテニスだけでは食えないのがアマチュア。
それらは、もちろん、間違いではありません。ただ、私は、それだけだとは思っていません。
では、プロとアマチュアの違いとは、いったい何なのでしょうか?本稿では、この違いについて考えたいと思います。
私が考えるプロフェッショナルの定義は、調子がよくなくても、技術が未完成であっても、試合において「形を整える」のがプロだということです。プロである以上、どんな理由があろうとも、みっともない試合を見せることだけは許されません。
これは、テニスだけの話ではありません。私の仕事でも同じです。どんなに調子が悪くても、一定以上の成果・業績・結果を必ず出すのがプロフェッショナルというものです。
プロの評価は、勝敗というたった一つの基準でなされます。これも、どのようなプロの世界でも共通しています。高い技術を持っていても、試合に勝てなければ、その技術は評価されません。どんなに努力していても、負ければ評価されないのがプロです。
逆に言うと、技術力がなくても勝てるのであれば、それは高い評価がされます。別の角度から見ると、プロの技術は、勝てるかどうかという「ものさし」(だけ)で評価されるのです。
プロは、したがって、勝つことができるという技術を、高度な、言い換えると正しい技術よりも優先します。ここが肝心なところです。勝つことができる技術は、美しい技術に優先します。「勝つテニス」が必ずしも「美しいテニス」と一致するとは限らないのです。
かつて、スウェーデンにケント・カールソンという、クレーコートのスペシャリストがいました。カールソンのテニスは、とにかくミスをせずにループボールで、延々とグランドストロークを打ち続けるというものでした。
カールソンはある程度の成績を残したのですが、正直なところ、それは、到底、美しいテニスと呼べるものではありませんでした。それでも、カールソンのテニスは、プロとしては正しいのです。勝つことが、何よりも優先するのがプロなのですから。
アマチュアは、その必要がありません。じっくり、自分のペースで時間をかけて、自分が納得するまで、じっくりと技術に取り組むことができるのがアマチュアです。アマチュアには、いつまでにどこまで完成させなくてはならないというデッドラインがありません。美しさを、勝利よりも優先できるのも、アマチュアの特権です。そのことを、堂々と宣言しても、アマチュアの場合は、誰にも非難されません。アマチュアなのですから。
アマチュアは、幸せです。
私は、46歳になって、約20年ぶりにテニスを再開しました。20代の中ごろまでは、それなりの熱意をもってテニスに取り組みました。しかし、この20年間、本業の仕事を充実させるために、年に数回しかテニスラケットを持つことができませんでした。テニスを再開してからは、週末プレーヤーですが、後述するように、それなり熱意をもってテニスに取り組んでいます。
今、この年齢になって、もう、若いころのような体力も、瞬発力もありません。当時のギラギラとした情熱すら、今はもうないと思います。しかし、不思議なことに、私の技術は、いまだに向上しています。そして、おそらく、若いときより今のほうが、テニスの技術は上だと思います。
それは、おそらく、今の私は、当時よりも自分が納得する技術を追求しているからだと考えています。今は、目の前の試合の勝ち負けではなく、自分の技術を向上させることに集中し、一歩一歩、前進しているからです。
実は、私は、46歳でテニスを再開する際に、2~3年計画で技術を定着させることにしました。メシールのビデオと自分のビデオを何度も何度も見直して、試行錯誤し、自分なりの技術を追求してきました。その間、ほとんど対外試合に出ることをしませんでした。練習試合でも、勝ったり負けたりを繰り返しながら、しかし、目先の勝利ではなく、しっかりとした技術理論を自分の中で確立し、さらにそれを身につけることだけを目標としてきました。
こんなに時間をかけて、何年もの時間をかけて、自分の技術だけを追求できるのは、それは私がアマチュアだからです。プロは、協調性をして、明日の仕事(=試合)で結果を出さねばならないからです。
アマチュアであることを大いに楽しむこと。これこそが、アマチュアの醍醐味だと思います。
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高い技術を持つのがプロで、そのレベルにまで達しないのがアマチュア。テニスで飯が食えるのがプロで、別に職業がなくてはテニスだけでは食えないのがアマチュア。
それらは、もちろん、間違いではありません。ただ、私は、それだけだとは思っていません。
では、プロとアマチュアの違いとは、いったい何なのでしょうか?本稿では、この違いについて考えたいと思います。
私が考えるプロフェッショナルの定義は、調子がよくなくても、技術が未完成であっても、試合において「形を整える」のがプロだということです。プロである以上、どんな理由があろうとも、みっともない試合を見せることだけは許されません。
これは、テニスだけの話ではありません。私の仕事でも同じです。どんなに調子が悪くても、一定以上の成果・業績・結果を必ず出すのがプロフェッショナルというものです。
プロの評価は、勝敗というたった一つの基準でなされます。これも、どのようなプロの世界でも共通しています。高い技術を持っていても、試合に勝てなければ、その技術は評価されません。どんなに努力していても、負ければ評価されないのがプロです。
逆に言うと、技術力がなくても勝てるのであれば、それは高い評価がされます。別の角度から見ると、プロの技術は、勝てるかどうかという「ものさし」(だけ)で評価されるのです。
プロは、したがって、勝つことができるという技術を、高度な、言い換えると正しい技術よりも優先します。ここが肝心なところです。勝つことができる技術は、美しい技術に優先します。「勝つテニス」が必ずしも「美しいテニス」と一致するとは限らないのです。
かつて、スウェーデンにケント・カールソンという、クレーコートのスペシャリストがいました。カールソンのテニスは、とにかくミスをせずにループボールで、延々とグランドストロークを打ち続けるというものでした。
カールソンはある程度の成績を残したのですが、正直なところ、それは、到底、美しいテニスと呼べるものではありませんでした。それでも、カールソンのテニスは、プロとしては正しいのです。勝つことが、何よりも優先するのがプロなのですから。
アマチュアは、その必要がありません。じっくり、自分のペースで時間をかけて、自分が納得するまで、じっくりと技術に取り組むことができるのがアマチュアです。アマチュアには、いつまでにどこまで完成させなくてはならないというデッドラインがありません。美しさを、勝利よりも優先できるのも、アマチュアの特権です。そのことを、堂々と宣言しても、アマチュアの場合は、誰にも非難されません。アマチュアなのですから。
アマチュアは、幸せです。
私は、46歳になって、約20年ぶりにテニスを再開しました。20代の中ごろまでは、それなりの熱意をもってテニスに取り組みました。しかし、この20年間、本業の仕事を充実させるために、年に数回しかテニスラケットを持つことができませんでした。テニスを再開してからは、週末プレーヤーですが、後述するように、それなり熱意をもってテニスに取り組んでいます。
今、この年齢になって、もう、若いころのような体力も、瞬発力もありません。当時のギラギラとした情熱すら、今はもうないと思います。しかし、不思議なことに、私の技術は、いまだに向上しています。そして、おそらく、若いときより今のほうが、テニスの技術は上だと思います。
それは、おそらく、今の私は、当時よりも自分が納得する技術を追求しているからだと考えています。今は、目の前の試合の勝ち負けではなく、自分の技術を向上させることに集中し、一歩一歩、前進しているからです。
実は、私は、46歳でテニスを再開する際に、2~3年計画で技術を定着させることにしました。メシールのビデオと自分のビデオを何度も何度も見直して、試行錯誤し、自分なりの技術を追求してきました。その間、ほとんど対外試合に出ることをしませんでした。練習試合でも、勝ったり負けたりを繰り返しながら、しかし、目先の勝利ではなく、しっかりとした技術理論を自分の中で確立し、さらにそれを身につけることだけを目標としてきました。
こんなに時間をかけて、何年もの時間をかけて、自分の技術だけを追求できるのは、それは私がアマチュアだからです。プロは、協調性をして、明日の仕事(=試合)で結果を出さねばならないからです。
アマチュアであることを大いに楽しむこと。これこそが、アマチュアの醍醐味だと思います。
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2011年08月04日
「人格はプレースタイルを超えることができない。」
文章を書くことを生業(なりわい)とする人は、どうしてこんなに言葉をうまく使うのだろうと思うことがあります。
村上龍氏の、次の一言は、私が、テニスというスポーツを愛し、自分でもプレーを楽しむ理由を、たった一言で言い尽くしてしまっています。
「人格はプレースタイルを超えることができない。」
ぜひ、この言葉を、この記事を読まれた方にも、味わっていただきたいのです。
多くのスポーツがそうであるように、テニスのプレーにも、その人のキャラクターが表れるものです。積極的なタイプはネットに出ますし、安定指向の場合はベースラインで粘るプレースタイルになるでしょう。
普段は安定志向の人が、案外と攻撃的だったりすることがあるかもしれません。
その人の人格は、その人のプレースタイルを超えることができない。つまり、その人の人格のすべては、その人のテニスを見ていればわかるというのです。テニスのプレースタイルは、それほどまでに、人の性格やキャラクターを反映しているということです。
メシールのプレースタイルは、メシールの人格そのものです。メシールのコート上でのマナーは、メシールの人柄であり、大げさではなく生き様なのです。私がメシールのプレーをコピーしたいという気持ちは、つまりはそういうことなのです。
レベルの高いプレーヤーほど、つまりプロプレーヤーほど、プレーを見ればその人の人格がそこに浮かび上がって見えてくるものです。
村上龍氏の、次の一言は、私が、テニスというスポーツを愛し、自分でもプレーを楽しむ理由を、たった一言で言い尽くしてしまっています。
「人格はプレースタイルを超えることができない。」
ぜひ、この言葉を、この記事を読まれた方にも、味わっていただきたいのです。
多くのスポーツがそうであるように、テニスのプレーにも、その人のキャラクターが表れるものです。積極的なタイプはネットに出ますし、安定指向の場合はベースラインで粘るプレースタイルになるでしょう。
普段は安定志向の人が、案外と攻撃的だったりすることがあるかもしれません。
その人の人格は、その人のプレースタイルを超えることができない。つまり、その人の人格のすべては、その人のテニスを見ていればわかるというのです。テニスのプレースタイルは、それほどまでに、人の性格やキャラクターを反映しているということです。
メシールのプレースタイルは、メシールの人格そのものです。メシールのコート上でのマナーは、メシールの人柄であり、大げさではなく生き様なのです。私がメシールのプレーをコピーしたいという気持ちは、つまりはそういうことなのです。
レベルの高いプレーヤーほど、つまりプロプレーヤーほど、プレーを見ればその人の人格がそこに浮かび上がって見えてくるものです。
2011年08月03日
プロスポーツ選手に聞いてみたいこと(改訂版)
私の仕事は、ちょっと変わった公務員のような仕事なので、民間の会社員ではないのですが、まあ、広い意味ではサラリーマンです。週末だけテニスを楽しむアマチュアテニスプレーヤーです。だから、というのが正しいのかわかりませんが、普段、プロスポーツ選手と話をする機会はありません。また、有名選手だからと言う理由で、会ってみたいとか、話をしたいとか思うことも、全くありません。
それが別に不満でも、困っているわけでもありません。ただ、いろいろな試合を見たり、また、いろいろな活動を見たりすると、時々、選手に直接聞いてみたいなぁと思うことがあります。
最近でいうと、プロ野球・日本ハムファイターズの二塁手の田中賢介選手。顔はちょっといかつい(すみません!)けれど、でも優しそうな雰囲気の日ハム選手会長です。
さて、最近、田中選手がアウトにした数だけ乳がん検診のためのマンモグラフィー検診をプレゼントするという日本生命のCMが、テレビでよく流れています。BGMもとても良い曲です。ゆずというデュオの「虹」という楽曲のようですね。私は、日常生活(車の運転を含めて)で音楽を聴くという習慣がないのですが、それでも「ゆず」というハーモニーの美しいデュオがいることは、知っています。
このCMは、とても感じのよいCMです。理由はよくわからないのですが、私はこのCMがとても好きです。おそらく、映像から田中選手の誠実さが伝わってくるからだと思います。プロスポーツ選手のボランティア活動をましてやCMで映像にすることは、有名人のボランティア行為の押し売りや売名行為だととらえられてしまうこともよくあります。にもかかわらず、思い切ってCMの企画を受け入れた田中選手の勇気に、素直に感銘しています。
その中で、「恵まれない子どもに」というような抽象的なものではなく、具体的な「乳がん検診の支援」ということをプロ野球選手である田中選手がなぜ選んだのかを、私は知りたいのです。知らなくてはならないことではないのですが、自分の中で、なぜ、自分がこのCMに感銘するのかを理解したいという気持ちと、どこかでつながっています。
上の日本生命のサイトでは、田中選手自身のカラーがピンクなので、同じピンクリボン活動に共感してこの活動を始めたのです…というようなことが書いてありますが、それだけの理由なのでしょうかね?やはり、もう少し、詳しいことが聞いてみたいです。
「書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(中) ナンバーワンになるということ」でも少し書きましたが、私は、プロのスポーツ選手については、そのプレーを理解すればよいと思っています。プライバシーは選手自身のものです。我々ファンがが知る必要はないものだと思っています。
ただ、今回の田中賢介選手のCMのように、メディアを通じて入ってくる事柄について、その背景や理由を知りたくなることがあります。今回で言うと、田中選手に直接、聞いてみたいなぁと思うわけです。
プレーそのものについてであることも、今回のようなプレー以外のことについて知りたい場合もあります。いずれにしても、芸術作品に感銘した時にその理由や背景について理解したくなるように、スポーツでもその理由を知りたくなることがあります。
最近は、ブログや電子メール、ツイッターなどがありますので、選手に直接質問してみる機会はかつてよりは多くなりました。たとえば、メールを送ったら、直接、返事をもらえることもあるでしょう。最近では、ラファエル・ナダル(http://yfrog.com/user/RafaelNadal/profile)がツイッターを始めて、あっという間にフォローアが20万人を超えたようです。
ただ、あまり、現役のプロスポーツ選手には、直接のコミュニケーションは取りたくないというのが正直な気持ちで。現役選手は、今、プレーヤーとして最高のパフォーマンスを見せることが第一目標であり、その準備(トレーニング)と試合、その後のメンテナンスで、すでにいっぱいいっぱいのはずです。それに対して、さらに、ファンとのコミュニケーション…。それよりも、むしろ、少しでも良いプレーを見せてくれることが、私には、一番魅力的です。
そう思うと、相手に負担をかける行為はできるだけしたくないというのが正直な気持ちです。もしかしたら、現役引退後に、プレーヤーにいろいろと質問したり、コミュニケーションしたりする場があるとよいかもしれませんね。
⇒元記事はこちらをご覧ください。
それが別に不満でも、困っているわけでもありません。ただ、いろいろな試合を見たり、また、いろいろな活動を見たりすると、時々、選手に直接聞いてみたいなぁと思うことがあります。
最近でいうと、プロ野球・日本ハムファイターズの二塁手の田中賢介選手。顔はちょっといかつい(すみません!)けれど、でも優しそうな雰囲気の日ハム選手会長です。
さて、最近、田中選手がアウトにした数だけ乳がん検診のためのマンモグラフィー検診をプレゼントするという日本生命のCMが、テレビでよく流れています。BGMもとても良い曲です。ゆずというデュオの「虹」という楽曲のようですね。私は、日常生活(車の運転を含めて)で音楽を聴くという習慣がないのですが、それでも「ゆず」というハーモニーの美しいデュオがいることは、知っています。
このCMは、とても感じのよいCMです。理由はよくわからないのですが、私はこのCMがとても好きです。おそらく、映像から田中選手の誠実さが伝わってくるからだと思います。プロスポーツ選手のボランティア活動をましてやCMで映像にすることは、有名人のボランティア行為の押し売りや売名行為だととらえられてしまうこともよくあります。にもかかわらず、思い切ってCMの企画を受け入れた田中選手の勇気に、素直に感銘しています。
その中で、「恵まれない子どもに」というような抽象的なものではなく、具体的な「乳がん検診の支援」ということをプロ野球選手である田中選手がなぜ選んだのかを、私は知りたいのです。知らなくてはならないことではないのですが、自分の中で、なぜ、自分がこのCMに感銘するのかを理解したいという気持ちと、どこかでつながっています。
上の日本生命のサイトでは、田中選手自身のカラーがピンクなので、同じピンクリボン活動に共感してこの活動を始めたのです…というようなことが書いてありますが、それだけの理由なのでしょうかね?やはり、もう少し、詳しいことが聞いてみたいです。
「書評:「二つのファイナルマッチ 伊達公子・神尾米最後の一年」(中) ナンバーワンになるということ」でも少し書きましたが、私は、プロのスポーツ選手については、そのプレーを理解すればよいと思っています。プライバシーは選手自身のものです。我々ファンがが知る必要はないものだと思っています。
ただ、今回の田中賢介選手のCMのように、メディアを通じて入ってくる事柄について、その背景や理由を知りたくなることがあります。今回で言うと、田中選手に直接、聞いてみたいなぁと思うわけです。
プレーそのものについてであることも、今回のようなプレー以外のことについて知りたい場合もあります。いずれにしても、芸術作品に感銘した時にその理由や背景について理解したくなるように、スポーツでもその理由を知りたくなることがあります。
最近は、ブログや電子メール、ツイッターなどがありますので、選手に直接質問してみる機会はかつてよりは多くなりました。たとえば、メールを送ったら、直接、返事をもらえることもあるでしょう。最近では、ラファエル・ナダル(http://yfrog.com/user/RafaelNadal/profile)がツイッターを始めて、あっという間にフォローアが20万人を超えたようです。
ただ、あまり、現役のプロスポーツ選手には、直接のコミュニケーションは取りたくないというのが正直な気持ちで。現役選手は、今、プレーヤーとして最高のパフォーマンスを見せることが第一目標であり、その準備(トレーニング)と試合、その後のメンテナンスで、すでにいっぱいいっぱいのはずです。それに対して、さらに、ファンとのコミュニケーション…。それよりも、むしろ、少しでも良いプレーを見せてくれることが、私には、一番魅力的です。
そう思うと、相手に負担をかける行為はできるだけしたくないというのが正直な気持ちです。もしかしたら、現役引退後に、プレーヤーにいろいろと質問したり、コミュニケーションしたりする場があるとよいかもしれませんね。
⇒元記事はこちらをご覧ください。