2011年08月06日
プロとアマチュアの違い(アマチュアの楽しさ)
プロフェッショナルとアマチュアの違いとは何でしょうか。
高い技術を持つのがプロで、そのレベルにまで達しないのがアマチュア。テニスで飯が食えるのがプロで、別に職業がなくてはテニスだけでは食えないのがアマチュア。
それらは、もちろん、間違いではありません。ただ、私は、それだけだとは思っていません。
では、プロとアマチュアの違いとは、いったい何なのでしょうか?本稿では、この違いについて考えたいと思います。
私が考えるプロフェッショナルの定義は、調子がよくなくても、技術が未完成であっても、試合において「形を整える」のがプロだということです。プロである以上、どんな理由があろうとも、みっともない試合を見せることだけは許されません。
これは、テニスだけの話ではありません。私の仕事でも同じです。どんなに調子が悪くても、一定以上の成果・業績・結果を必ず出すのがプロフェッショナルというものです。
プロの評価は、勝敗というたった一つの基準でなされます。これも、どのようなプロの世界でも共通しています。高い技術を持っていても、試合に勝てなければ、その技術は評価されません。どんなに努力していても、負ければ評価されないのがプロです。
逆に言うと、技術力がなくても勝てるのであれば、それは高い評価がされます。別の角度から見ると、プロの技術は、勝てるかどうかという「ものさし」(だけ)で評価されるのです。
プロは、したがって、勝つことができるという技術を、高度な、言い換えると正しい技術よりも優先します。ここが肝心なところです。勝つことができる技術は、美しい技術に優先します。「勝つテニス」が必ずしも「美しいテニス」と一致するとは限らないのです。
かつて、スウェーデンにケント・カールソンという、クレーコートのスペシャリストがいました。カールソンのテニスは、とにかくミスをせずにループボールで、延々とグランドストロークを打ち続けるというものでした。
カールソンはある程度の成績を残したのですが、正直なところ、それは、到底、美しいテニスと呼べるものではありませんでした。それでも、カールソンのテニスは、プロとしては正しいのです。勝つことが、何よりも優先するのがプロなのですから。
アマチュアは、その必要がありません。じっくり、自分のペースで時間をかけて、自分が納得するまで、じっくりと技術に取り組むことができるのがアマチュアです。アマチュアには、いつまでにどこまで完成させなくてはならないというデッドラインがありません。美しさを、勝利よりも優先できるのも、アマチュアの特権です。そのことを、堂々と宣言しても、アマチュアの場合は、誰にも非難されません。アマチュアなのですから。
アマチュアは、幸せです。
私は、46歳になって、約20年ぶりにテニスを再開しました。20代の中ごろまでは、それなりの熱意をもってテニスに取り組みました。しかし、この20年間、本業の仕事を充実させるために、年に数回しかテニスラケットを持つことができませんでした。テニスを再開してからは、週末プレーヤーですが、後述するように、それなり熱意をもってテニスに取り組んでいます。
今、この年齢になって、もう、若いころのような体力も、瞬発力もありません。当時のギラギラとした情熱すら、今はもうないと思います。しかし、不思議なことに、私の技術は、いまだに向上しています。そして、おそらく、若いときより今のほうが、テニスの技術は上だと思います。
それは、おそらく、今の私は、当時よりも自分が納得する技術を追求しているからだと考えています。今は、目の前の試合の勝ち負けではなく、自分の技術を向上させることに集中し、一歩一歩、前進しているからです。
実は、私は、46歳でテニスを再開する際に、2~3年計画で技術を定着させることにしました。メシールのビデオと自分のビデオを何度も何度も見直して、試行錯誤し、自分なりの技術を追求してきました。その間、ほとんど対外試合に出ることをしませんでした。練習試合でも、勝ったり負けたりを繰り返しながら、しかし、目先の勝利ではなく、しっかりとした技術理論を自分の中で確立し、さらにそれを身につけることだけを目標としてきました。
こんなに時間をかけて、何年もの時間をかけて、自分の技術だけを追求できるのは、それは私がアマチュアだからです。プロは、協調性をして、明日の仕事(=試合)で結果を出さねばならないからです。
アマチュアであることを大いに楽しむこと。これこそが、アマチュアの醍醐味だと思います。
⇒この記事の元記事はこちらです。
高い技術を持つのがプロで、そのレベルにまで達しないのがアマチュア。テニスで飯が食えるのがプロで、別に職業がなくてはテニスだけでは食えないのがアマチュア。
それらは、もちろん、間違いではありません。ただ、私は、それだけだとは思っていません。
では、プロとアマチュアの違いとは、いったい何なのでしょうか?本稿では、この違いについて考えたいと思います。
私が考えるプロフェッショナルの定義は、調子がよくなくても、技術が未完成であっても、試合において「形を整える」のがプロだということです。プロである以上、どんな理由があろうとも、みっともない試合を見せることだけは許されません。
これは、テニスだけの話ではありません。私の仕事でも同じです。どんなに調子が悪くても、一定以上の成果・業績・結果を必ず出すのがプロフェッショナルというものです。
プロの評価は、勝敗というたった一つの基準でなされます。これも、どのようなプロの世界でも共通しています。高い技術を持っていても、試合に勝てなければ、その技術は評価されません。どんなに努力していても、負ければ評価されないのがプロです。
逆に言うと、技術力がなくても勝てるのであれば、それは高い評価がされます。別の角度から見ると、プロの技術は、勝てるかどうかという「ものさし」(だけ)で評価されるのです。
プロは、したがって、勝つことができるという技術を、高度な、言い換えると正しい技術よりも優先します。ここが肝心なところです。勝つことができる技術は、美しい技術に優先します。「勝つテニス」が必ずしも「美しいテニス」と一致するとは限らないのです。
かつて、スウェーデンにケント・カールソンという、クレーコートのスペシャリストがいました。カールソンのテニスは、とにかくミスをせずにループボールで、延々とグランドストロークを打ち続けるというものでした。
カールソンはある程度の成績を残したのですが、正直なところ、それは、到底、美しいテニスと呼べるものではありませんでした。それでも、カールソンのテニスは、プロとしては正しいのです。勝つことが、何よりも優先するのがプロなのですから。
アマチュアは、その必要がありません。じっくり、自分のペースで時間をかけて、自分が納得するまで、じっくりと技術に取り組むことができるのがアマチュアです。アマチュアには、いつまでにどこまで完成させなくてはならないというデッドラインがありません。美しさを、勝利よりも優先できるのも、アマチュアの特権です。そのことを、堂々と宣言しても、アマチュアの場合は、誰にも非難されません。アマチュアなのですから。
アマチュアは、幸せです。
私は、46歳になって、約20年ぶりにテニスを再開しました。20代の中ごろまでは、それなりの熱意をもってテニスに取り組みました。しかし、この20年間、本業の仕事を充実させるために、年に数回しかテニスラケットを持つことができませんでした。テニスを再開してからは、週末プレーヤーですが、後述するように、それなり熱意をもってテニスに取り組んでいます。
今、この年齢になって、もう、若いころのような体力も、瞬発力もありません。当時のギラギラとした情熱すら、今はもうないと思います。しかし、不思議なことに、私の技術は、いまだに向上しています。そして、おそらく、若いときより今のほうが、テニスの技術は上だと思います。
それは、おそらく、今の私は、当時よりも自分が納得する技術を追求しているからだと考えています。今は、目の前の試合の勝ち負けではなく、自分の技術を向上させることに集中し、一歩一歩、前進しているからです。
実は、私は、46歳でテニスを再開する際に、2~3年計画で技術を定着させることにしました。メシールのビデオと自分のビデオを何度も何度も見直して、試行錯誤し、自分なりの技術を追求してきました。その間、ほとんど対外試合に出ることをしませんでした。練習試合でも、勝ったり負けたりを繰り返しながら、しかし、目先の勝利ではなく、しっかりとした技術理論を自分の中で確立し、さらにそれを身につけることだけを目標としてきました。
こんなに時間をかけて、何年もの時間をかけて、自分の技術だけを追求できるのは、それは私がアマチュアだからです。プロは、協調性をして、明日の仕事(=試合)で結果を出さねばならないからです。
アマチュアであることを大いに楽しむこと。これこそが、アマチュアの醍醐味だと思います。
⇒この記事の元記事はこちらです。